物語のラストに、ほんのわずかでいいもの。
こんな不定期な、こんなに間を空けた更新でも読者になってくれた方たちがいる。どうもありがとう。
漫画を描くことや文章を書くことばかりしてきたせいか、ブログと言ってもひとつの記事を作品と考えてしまうので、纏めるのにどうしても時間がかかってしまう。
けれど今日は、初めて思いつくままに書き連ねてみようかと思う。
とは言ってもテーマがないと行き詰まってしまうので、【私の好きな物語のラスト】とする。
三つの作品を挙げよう。
映画『THX1138』
小説『幻影の書』
小説『スキャナー・ダークリー』
(以下、ネタバレ全開でお送りします)
1971年製作、ジョージ・ルーカス監督デビュー作である。
巨大な地下都市。徹底した管理社会の下に人々は番号で呼ばれ、感情すらも規制されている。主人公のTHX1138は、LUH3417と呼ばれる女性と互いに恋愛感情を持ってしまう。密告によりいなくなってしまうLUH3417。彼女を密告した男もまたロボット警察に連れて行かれてしまう。主人公は地下都市からの脱出を決意する。後のスター・ウォーズを連想させる浮遊するパトカーからの逃亡劇が繰り広げられた後、遂にTHX1138は地上へと出ることに成功する。
私が初めて観たルーカス作品は『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』だったが(とても幸せ者だと思う)、十代の終り頃に『THX1138』を観た時初めて「この人、天才だ」と思った。いや、ルーカスなんだけど。
厳密に言うと、ラストシーンを観た時である。
鳥が飛んだ時である。
我が【忘れられない映画のラストシーン】5本の指に入る名場面なのでもう少し説明しよう。
燃えるような夕陽の中、主人公が立ちすくむシルエットだけが見える長回しのワンカットである。背景には真っ赤な空以外何も無い。主人公の表情も見えない。彼が目にした光景はわからない。……が、画面の端を一匹の鳥が横切るのだ。
この物語を「最後まで救いのないディストピア映画」と言う感想はよく見かける。
ルーカスの真意はわからない(ちなみに鳥は撮影中に偶然映り込んでしまったそうだ)、しかし私は、あの鳥の存在がラストを決定づけていると感じた。
人間たちが地下に移り住んだ理由は語られないが、何らかの理由で過去に生命が生きてゆける状態ではなくなってしまったのだろうと推測出来る。
私には、ラストで飛ぶ鳥は“生命”の象徴に見えたのだ。
だが地上でどんな物が蠢いているかはわからない。
どちらにも取れるだろう。
ルーカスは天才だ。
私は現在発売されているディレクターズカット版を観ていない。どうやらあの場面に“今の技術を駆使して”荒廃した都市の背景が入っているらしいのだが……そういう事をしてしまうのもまたルーカスだな……。
オースターは2,3作しか読んだことがなかった。
確かこの本はハードカバーの新刊が出た時、ちょうど漫画アシスタントの仕事の徹夜明けで、ギャラをもらって半分寝ながらも本屋に立ち寄って目に留まったのだ。
家に帰って死んだように眠ったあと、翌日の昼頃起きて読み始めたら止まらなくなり、その日も徹夜で読みふけることとなった(若かったなぁ)。
飛行機事故で妻と二人の息子をなくした主人公は、家にこもり、アルコールに浸るだけの日々を送り、大学での仕事にも行けなくなっている。
ある晩、何の気なしに点けたテレビで無声映画時代の喜劇役者たちのドキュメンタリーがやっている。その最後に出てきたのがヘクター・マンという知らない役者だった。
主人公は、何ケ月かぶりに声を出して笑ってしまう。
…自分がまだどん底まで墜ちていないことを私は悟った。私のなかのどこか一部分が、まだ生きたがっているのだ。(単行本版:11ページ)
主人公は絶望から救ってくれたその喜劇役者の作品を追い始める。監督でもあるヘクターは、短編映画を12本撮った後に失踪し、それから約60年経っていた。
彼は監督の消息を追い、ヘクターについての研究書を出版する。
三ヶ月後、一通の手紙が届く。なんとヘクター・マン夫人から。ヘクターが会いたがっていると言う。
この後、物語はヘクターのお抱え撮影技師の娘が登場し、手紙を疑う主人公を説得し、ヴァーモントからニューメキシコまで連れて行く道すがら失踪後にヘクターに起こったことを話す。この過去の出来事のボリュームがかなりあり、それだけで充分に物語として読ませるドラマティックな内容である。
それ故、主人公がようやくヘクターの家にたどり着き、ほぼ危篤状態だという彼の部屋のドアを開け、ベッドに横たわるヘクター・マンの姿が描写された時、「ああ、本当に彼がいる」と主人公に同調してしまう。
主人公とヘクターの短いやりとりは、オースターの言葉が美し過ぎて内容を纏めるのが憚られる。
なのでここでは本題のラストにだけ触れよう。
ヘクターは主人公と会話した翌日に息を引き取った。
ヘクターは失踪後も映画を撮っていた。だがその貴重なフィルムは彼の遺言により、死後全て燃やされてしまう。主人公の奮闘も虚しく全ては灰となった……が、主人公は思いを巡らす。ヘクター夫人はフィルム焼却に反対していた。最後に撮影技師の娘とのいざこざの中起きた事故で亡くなってしまったが、賢い彼女はコピーを取っているのではないか。それは、どこかに眠っているのではないか。
その希望とともに、主人公は生きて行く。
ディックの小説の主人公たちはよく泣く。
さめざめとした涙を流す。
私はそんな場面が大好きだ。そこにはディックの優しさがあるから。等身大の人間性があるから。
本作はいつものディック節炸裂、主人公が自分自身誰だかわからなくなるジャンルである(あるのかそんなジャンルが、あるのだディックには)。
物質Dなるドラッグが蔓延する近未来、主人公は潜入捜査官としてヤク中たちと過ごしている。仲間と住む自宅の監視カメラで自分たちを見ていると、自分を監視する自分、いないはずの妻子との思い出などが次々と彼を襲うようになる。彼自身、物質Dにハマってしまったのだ。気づいたらもう手遅れ、落ちる所まで落ちた主人公は愛する女性ドナに連れられ薬物治療の施設へ入れられてしまう。実はドナも捜査官、しかも主人公の上司だった。 脳まで溶けた彼は、入ったが最後出てこれない、ドン底まで行った者たちだけが集められる農園送りとなってしまう。その農園で栽培されていたものは…………物質Dをバラ撒いていたのは…………
ドナにとって、主人公は真実を暴く僅かな希望だった。残酷且つ、儚い希望。
彼は年に2回だけ施設に帰れるという言葉を信じ、施設の仲間へプレゼントしようと農園に咲いていた花を摘み取り、ブーツに隠したところで終わる。
ここに挙げた3作品に共通するのは、ラストシーンである。
そこにあるのは、たった一筋の、細い細い僅かな希望の光。気づかない人もいるかもしれない、呼吸ひとつで吹き飛ぶかもしれないほど細くか弱い。
そんな終わり方をする物語が好きなのだと思う。
細い希望にすらすがり付きたい人間の弱さ。
たった一筋の希望さえあれば生きていける人間の強さ。
最後の一文を読み終えた時、静かに静かにゆっくりと息を吐いてしまうような物語にまた出会いたい。
『ファイト・クラブ』は✖✖✖✖の物語ではない。
☆はじめに☆
このブログでは、小説(映画版含め)のネタバレを初っ端から盛大にするので、これから読みたいと思ってる方、物語・ラストを知りたくない方は閉じるように。
また、引用はすべて『ファイト・クラブ[新版]』(早川書房)からによる。
遂に『ファイト・クラブ』について書く時がきた。
原書の発売は1996年、日本語翻訳版1999年、映画版公開は同じく1999年、そして長らく廃版となっていた日本語版復刊が2015年である。
この約21年、厳密に言うとここ5、6年の間に私に何が起きたのか。
なぜ、初読時には予想だにしなかった感情をこの作品に対して持つに至ったのか。
そしてなぜ、すべての終わりと始まりがステッドラーの鉛筆なのか。
目を覚ます、それだけで充分だ。(41ページ)
『ファイト・クラブ』あらすじ
主人公“ぼく”は、大手自動車メーカーに勤務し、完璧なマンションに住み、完璧な北欧家具に囲まれ、完璧な暮らしをしている。そして、慢性的な不眠症だ。眠れない苦しみを医者に訴えると、「本当の苦痛を見てくればいい」と重病患者の集まる互助会の存在を教えられる。ガン患者の集会で、器質性脳障害の集会で、住血寄生虫宿主の集会で、“本当の”患者たちと抱き合い、泣くことによってぼくはすべての希望を失い、自由になり、生を実感し、生き返る。そして眠りにつくことが出来るようになった。
だが、ある時から集会でひとりの女を見かけるようになる。自分と同じ詐病。マーラ・シンガーが登場する。偽物の彼女がいるとぼくは泣けず、また不眠症になる。ぼくたちは二人が同じ集会で出会わぬよう、参加するグループを分ける取り決めをする。
ある日休暇で行ったビーチで、ぼくはタイラー・ダーデンと知り合う。野性的で、物知りで、欲望のままに生きるタイラー。ぼくの部屋が何者かによって爆破されたことがきっかけで、ぼくはタイラーの家で一緒に暮らすことになる。その代わり、「おれを力いっぱい殴ってくれ」と彼は言う。
ファイト・クラブの始まり。ただ闘うだけ。勝敗は関係ない。ファイトに参加する男たちはどんどん増えて、クラブは大きくなる。
メンバーはタイラーに心酔し、絶対的な信頼と忠誠を誓う。
ぼくはおいてけぼり。
タイラーは大きな計画を進めていた。騒乱(メイヘム)プロジェクト。世界を吹き飛ばし、文明を解体する。今やタイラーの組織した軍隊はアメリカ中にいる。あちこちで襲撃や爆破事件が起きている。
タイラーを止めなければいけない。
ぼくは消えたタイラーを追う。各都市のファイト・クラブを訪ねて回る。
「またいらしてくださいましたね、サー」
ぼくはこのバーに一度も、一度も、そう、たったの一度だって来たことがない。
……
「あなたは先週もいらしたでしょう、ミスター・ダーデン」(226ページ)
“ぼく”が、タイラー・ダーデンだった。
ぼくが眠ると現れるタイラーが行動していた。
ぼくの部屋を爆破したのはぼくだった。完璧な世界を破壊するため。
タイラーはマーラと関係を持っている。マーラはぼくたちの見分けがついておらず、ぼくを欲しがっている。ぼくはタイラーが欲しい。
でも、タイラーを始末しないといけない。
彼の軍隊が金融企業ビル群を爆破する前に。
そしてぼくは、ぼくの口に銃口を突っ込む。
多くの人が、『ファイト・クラブ』は二重人格の物語だと思っている。
実際、これまでに見かけた書評も映画評も、ほぼ100%がなんの迷いもなくそう書いていた。
私もそう思っていた。
タイラーが現れるまでは。
結論を先に言う。
『ファイト・クラブ』は二重人格の物語ではない。
これは【夢遊病】の物語である。
私は医学に関しては素人だ。
しかし、夢遊病体験者である。
自己の体験によりこの物語の真なるテーマが見えた今、ようやくこの文章を纏める時が訪れた。後述するが、それには長い長い時間を要し、同時に決意が必要であった。
二重人格と夢遊病は、まったく別の病である。
二重人格(多重人格)の正式名称は、解離性同一性障害。
夢遊病の正式名称は、睡眠時遊行症。
解離性同一性障害を発症する主な原因は、ストレスや心的外傷といわれる。過去もしくは現在のつらい体験によるダメージから自身を守るために別の人格があらわれるという。
一方、夢遊病の原因は様々だ。睡眠時間の乱れ、睡眠不足、疲労、身体的・肉体的ストレス、そして向精神薬による副作用など。
夢遊病の発症は幼少期が圧倒的に多く、大人では稀だそうである。
私は、睡眠剤による副作用で発症した。
過去のブログでも多少触れてきたが、私は数年前に大病を患った。私にとっては大病、まさに人生を変えられてしまった。
診断名は統合失調症。
今回のテーマから多少外れてしまうので軽く説明するに留めるが、おそらくほとんどの人と同様、この病気に関して私は無知だった。
統合失調症の原因は今もって不明であり、およそどの国、どの民族においても約100人に一人の確率で発症する。
あの時、私はそれなりにハッピーに過ごしていたと思う。裕福ではなかったけれど、特に大きな悩みも無く、プロデビューを目指すべく漫画を描く日々だった。
発症第一日目のことをよく覚えている。
起きたら、世界が暗かった。実際、灰色がかって見えたのだ。
そして何もやる気が起きなくなっていた。
疲れが溜まっているんだろうと思っていたが、症状はまさに転落するかの如く一気に悪化した。そこに無いはずのものが見え、聞こえるようになった。うつ症状(うつ病とは違う。とても判断が難しいので専門家=医者に任せること)から始まり、幻覚・幻聴・妄想と、典型的な症状が続々現れていった。
さらに、もともと不眠症を患っていたので睡眠剤を常用していたが、まったく効かなくなった。
今思えば、総合病院に通っていたことが良かったのだと思う。
たとえ調子が悪くても、身内に患者がいたりしない限り「もしかして自分は統合失調症かな」などと思わないからだ。事実私は、不眠症がひどくなっただけ、と思っていた。明らかな幻覚を見ているのに!
いつもの内科医になんとなくそれを伝えた時、相手の顔色が変わったのも覚えている。
「ぼくが精神科の先生にお手紙を書きますから、今日必ず予約を取って帰ってください」と言われ、ようは精神科に回してくれたのである。
そのおかげで、私はかなり初期の段階で治療を始めることが出来た。
闘病の体験は割愛させていただくが、何よりこたえたのが、絵を描けなくなったことだった。
心理的に、ではない。描き方をどんどん忘れていったのだ。パースの取り方も、木々の描き方も、長いアシスタント生活で身に付けたあらゆるテクニックが、私の頭の中から次々消えていった。
絵を描くことが人生の中心にあったことを痛感した。
なぜなら、描けなくなった私には何も残っていなかったから。
「おめでとう。どん底に一歩近づいたな」(108ページ)
大量の向精神薬投与が始まった。
統合失調症の治療薬、精神安定剤、副作用による便秘改善薬、そして「まずは寝ないとダメです」と、より強力な睡眠剤。
ここでひとつだけ書いておきたいのは、精神病を患い向精神薬による治療を行っている患者に対して絶対に言ってはいけない言葉があるということ。
「そんなにたくさん服用して、大丈夫?」
禁句である。心配しているなら尚更。
こういった言葉を私は“無責任なアドバイス”と呼んでいるが、はっきり言って素人が口を出すところじゃない。他の病でもそうかもしれないが、統合失調症やうつ病など精神病の治療に処方される向精神薬は、ひとつ飲んでぱーんと効くわけではないのだ。二種類、時に三種類以上の薬のコンビネーションなのだ。人によって効き目は違い、副作用もある。一番良い処方を見つけるまでが実はとても大変な道のりなのである。
突然大量の薬を処方され、一番不安になっているのは患者本人であろう。そこで素人の無責任なアドバイスにより不安が倍増して、服用を止めてしまったら?治療はストップしてしまう。つまり、症状は悪化する。
その責任が取れるだろうか?
少し話が脱線した。睡眠剤の話に戻ろう。
結局私は、三種の睡眠剤を服用することになる(現在は、法改定により一人に対して処方出来る睡眠剤は二種類まで)。
そのひとつが、マイスリーだった。
誤解無きよう書いておくが、マイスリーは良い薬である。助けられている人も大勢いるだろう。私も、ようやく辿り着いたその三種のコンビネーションで、久しぶりに眠りにつくことが出来た。
異変を感じたのは、一、二週間後であった。
どう言えばよいのかわかないが、朝起きてみると何かがおかしい。
台所の流し台に、明らかに食べ終えた後の食器が置いてある。
ベランダに置いてあるサボテンに、水をやった形跡がある。
本棚に並べてあったはずの本が床に積まれている。
私は喫煙者で、眠りにつく前、灰皿を空にして内側を拭いておくという習慣があるのだが、朝見るときれいになった灰皿に吸い殻が一本転がっている。
これが家族やパートナーと同居している人だったら、同居人が気づくであろうが、私は一人暮らしなのでその真実に気づくまでしばらくかかった。
決定的だったのは、ある晩のこと。
アクティブなことが何も出来なくなっており、仕事場と家との往復が精一杯で、休みの日も病院以外では外出する気力がなくなっていたので、読む本が無くなっていた(もっとも、読書に対する情熱も薄れていたが)。
そういえばスマホに最初から入っていたGoogle Books、電子書籍を買う習慣がないのでほとんど開いたことがなかったが、いつの間にかサンプルが勝手に増えていたりする。何か読みたいものはないかな…と思って久しぶりにアプリを開いてみた。
するとそこには、“買った覚えのない”書籍がズラッと並んでいたのである。
「私、夢遊病だ」
医者にその事を報告すると、処方を変えようかという話になった。夢遊病で一番怖いのは、外に出てしまうこと。普通にコンビニに行ったり、車を持っていればそれに乗ってどこかへ行ってしまったりする。
家族がいれば誰か物音に気づくだろうが、一人では止めてくれる人もいない。
夢遊病の時は基本ボーっとしている感じなので、事故や事件に巻き込まれるのが一番心配だという。
しかし、私はしばらくこのままでいいと言った。正直、また合う薬のコンボを見つける苦労を考えると、その他の吐き気や頭痛といった副作用を思い出すと、もう変えるのは嫌だった。
医者はひどく心配な様子だったが、様子を見るということにしてくれた。
ところで、夢遊病に対してどんな印象を持っているだろうか。
夜中にムックと起き上がり、ふらふらと歩き、意味不明なことをする?
私はマイスリー服用中、週に一、二回の頻度で夢遊病を起こした(朝の痕跡に気づいただけで、もっと起きていたのかもしれない)。
その不気味な…そう、不気味だった。はっきり言って、怖かった。夜中の“もう一人の自分”の行動は、まったく記憶に無かった。
だが、その“もう一人の自分”が残した痕跡によってその行動を推測していくうちに、私はあることに気がついた。
“そいつ”は、私が嫌だと思うことは決してしない。
どころか、“私が心のどこかでしたいと思っていたこと“をやっているんじゃないか?と。
あれは梅雨の時期だった。そろそろ多肉植物たちに水をやらないとな…でも雨が降るかもしれない…と気がかりのまま水やりしないでいた。
床に積み上げられた『ジョジョの奇妙な冒険』を見て、そういえば久しぶりに第六部が読みたいと思っていたことを思いだした。
Google Booksに並んだタイトルは、以前どこかで見かけて「電子版のみの発売か…いつか読みたいな」と思った書籍だけだった。
夜中に目が覚めればお腹が空いているだろう。一服したくなるだろう。
“そいつ”は、私の欲望のままに行動してるのだ。
昔バイト先にいた人が、夢遊病になったという話をしていた。夜中に二階からゴトンゴトンという音がして目を覚ました母親が、彼の部屋に行ってみると一人でタンスを押している。「何してるの?」と聞くと、「移動させたくて」。その様子から、寝ぼけてるなと思った母親が「もう遅いから明日にしなさい」と言うと素直に寝たという。翌朝、起きたら家具の位置が変わっていてビックリしたが、「ちょうど模様替えしたいと思ってたから」と本人は笑っていた。
ある朝目覚めたら車の中でどこか知らない街にいた、というような話を聞いたことがないだろうか。たぶんドライブしたかったのだろう。もしくは、どこかへ逃げたかったのかもしれない。
そのことに気づいた私は、『ファイト・クラブ』を思い出した(ようやく本題に!)。
ああ、まるでタイラー・ダーデンだ。
タイラーは、主人公がしたかった事をしていたじゃないか。あれは、夢遊病の話だったのだ。
それは間違いない。だが真実はもっともっと深いところにあったのだ。
あの時私は病気だった。それ以上は考えられなかった。喜怒哀楽がほとんど無く、思考も鈍くなっていた。
タイラーの“痕跡”は、どこか不可解なところがあった。
当時私は朝食にオールブランを食べていたのだが、いつも同じボウル型の食器を使っていた。その食器は流し台に置かれていたが、スプーンはガス台に突き刺さっていた。
丸い灰皿とライターと煙草は、きっちりと等間隔で、横に並べられていた。
植物の水やりに使うジョーロは、浴槽の中に逆さに置かれていた。
タイラーは夜中に食事をし、一服して、電子書籍を買い、植木鉢の位置を変えた。
私は医者に報告を続けた。
だがひとつだけ、誰にも言えなかった“タイラーのやったこと”がある。
私の机には、PCとトレース台、画材が置かれている。
半年以上、触れることもしなかった画材。
ペンは錆び、筆立てには削られることのないステッドラーの青い鉛筆が立ち、インク瓶にはうっすらと埃が積もっている。
ある朝ふと机に目をやると、その光景があった。
トレース台の上に、7本の鉛筆がきっちりと並べられていた。
不揃いの長さの使いかけの鉛筆が等間隔に整然と置かれたその異様な光景は、何故だかわからないが私をひどく苦しめた。
心臓を…いや、“脳”を鷲掴みにされたような苦しさだった。
そう、あれは“痛み”だった。
吐き気がこみ上げ、病んだ脳を更に内側から攻撃されたような強烈な痛みだった。
“受け止めきれない”と判断した私はそれ以上考えることを止め、その時見た光景を封印した。
『ファイト・クラブ』本編に話を戻そう。
深夜のコンビニで働く青年・レイモンドが仕事を終えてバス停にいるところで、主人公が突然彼の頭に銃を突き付ける有名な場面がある。
ここで“ぼく”(映画版ではタイラー)は、獣医への道を断念し、カレッジへも行かなくなったレイモンドから運転免許証を奪って彼に言う。
きみの様子を確認させてもらうぞ、…三ヶ月後、半年後、一年後。もし学校に戻って獣医への道を歩んでいなかったら、きみは死ぬことになる。(221ページ)
ここで重要なのは、ぼくは「…獣医になっていなければ 死ぬことになる」とは言っていない点だ。
ぼく(=タイラー)が言いたいのは
“望んだ何者(A)かになれないとしても、何者かになる為に行動した時点で、何者かを目指す何者(B)かになっている”
ということではないか。
この台詞、このくだりは非常にタイラーらしい啓蒙である。
この後が描かれていないレイモンドは、命の危機を感じたからという始まりであっても、カレッジに戻り再び獣医の勉強を始めることだろう。
歩み始めた彼は、昨日までの自分とは違う何者かになっている。
故に、
…明日は、きみのこれまでの人生でもっとも美しい一日になる(222ページ)
のである。
本書には何度か父親に関する記述があり、タイラーもファイト・クラブで闘う時は(心の中では)父親と闘っていると答えるなど、要所要所でキリスト教を連想させる。キリスト教圏において、父親=神だと想像するのは容易だ。
そこから更に連想されるものといえば父殺しだ。
では、『ファイト・クラブ』は父親を超えようとする男たちの物語か?
逆説的だが、この誤解はタイトルから生まれている。著者の「何クラブでもよかった」という発言には思わず笑ったが、確かにあるルールのもとで固まっていく組織であればファイトでなくても物語は成立する。ファイト・クラブにしたが故にそこに“男らしさ”を読み取る読者が多発するが、この物語のテーマに性は関係していないのだ。
もし、主人公が女性だったら?
ナンセンスな想像だがそれでも作品の持つ痛みと衝撃は変わらなかっただろう。映画化されたら、それはそれで支持されるカルト作品となったかもしれない。
つまりこの物語において重要なのは過剰な男らしさではなく、その拳が自分自身に向けられていることなのだ。
どちらかと言うと『ファイト・クラブ』には仏教的な何かを感じる。
以前目にしたとある日本の僧侶の言葉を思い出さずにはおれない。
「絶望の淵に立った時、もう一人の自分がゆっくりと目を覚ます。もう一人の自分は、自分よりはるかに強い」
仏教において、自分を救ってくれるのは仏陀ではなく、ましてや神や仏でもなく、自分自身なのだ。
ところで、世の中には不眠症をあまりに軽く捉えている人々がかなり居る。自分から話題にしないようにはしているが、何かの折に私が不眠症であることを告げると、約七割の人が「自分も不眠症だ」と答えてくる。
話を聞くと(そういう人は大抵自分から、いかに重度の不眠かを語ってくる)、「布団に入ってから何時間も眠れない時がよくある」「たまに朝まで眠れない」程度なのだ。
更には「運動すると良い」などと言葉を返す気力もないアドバイスをされる。
真の不眠症とは、“眠れない”病気である。
日中どれだけ体を動かそうが、温めた牛乳を飲もうが、アロマ風呂に入ろうが、眠れないのである。何日も、何日も、何日も…最後は…あれはおそらく気絶である。
主人公のぼくは真の痛みを知る為に医者から互助会を見てくるように勧められるが、真の不眠症を知りたければ『ファイト・クラブ』を読むといい。
著者チャック・パラニュークは自身が実際に見聞きしたことや体験者の話を盛り込んだと言っているが、体験者となってから読み直すと、不眠症に関する描写(一人称小説なので表現というべきか)はどれも秀逸だった。
どんな出来事もはるかかなたで起きる。コピーのコピーのコピー。不眠症的非現実感。何一つ手が届かず、何一つこちらに手が届かない。(22ページ)
一晩中、思考がオンエア状態だ。
ぼくは眠っているのか?わずかでも眠ったのか?(232ページ)
あなたは会社に来ています。
あなたはここ以外ならどこだっていいどこかに来ています。(274ページ)
“意識”という最後のスイッチが切れない。
脳の疲労が日々蓄積されてゆき、取り巻く世界は重くぼやけてくる。
睡眠というごく自然な生理現象を行えない自分は不自然な生き物であるという自己嫌悪に襲われる。
これが不眠症だ。
慢性的な不眠症で夢遊病を引き起こし、もう一人の自分であるタイラーは攻撃的であるが自身の欲望を満たそうとする理想の自分であることに気づく主人公。
では、マーラ・シンガーの存在は?
自堕落で自殺願望があり、互助会に救いを求めるマーラは主人公にそっくりなのである。厳密に言えば、主人公が嫌悪している自身の一部の分身のような人物なのだ。つまり、ぼくのそれまでの人生は完璧などではなかった。
前半では明らかにマーラを憎み、自分とタイラーの関係を邪魔する存在とみなしていた主人公が、後半になって彼女を愛するようになるのと同時にタイラーの恐るべき計画に気づいて彼を殺そうとするのは、自身のすべてを受け入れることに他ならない。
二重人格(解離性同一性障害)のもう一人の自分は自己を守る為に現れるが、夢遊病の 場合は、攻撃してくるのである。
ここが、決定的な相違点だ。
この作品におけるテーマが幼稚であるとかファシスト的であるとか、そういった意見は問題ではない。
そもそも、テーマをはき違えて捉えている人がおそらく大勢いる。
『ファイト・クラブ』は、夢遊病状態にある自己にキャラクターを付け、覚醒状態にある自己との関係に踏み込んだ物語として記憶されるべきである。
タイラーは、ただやりたいことを片っ端からやれと言っているわけでもないし、社会を混乱させろと言っているわけでもないし、気に入らない上司を殺せと言っているわけでもない。
彼の存在が伝えようとしていることはたったひとつなのだ。
自分自身であれ。
それがどんなに困難で、時に恐怖や嫌悪を伴おうとも。
個人の自由を謳う資本主義社会でこそ、ただの自分であることから無意識に時に強制的にズレが生じてくるのだ。
好みかどうかわからない流行のものを買い集めること、経済力が力の大きさとなること、勝敗に重きを置くこと、落伍者が社会から疎外されること。
自分自身であり続けるためにやらなくてはならないのだ。
何を?
タイラーは答えた。「おれを力いっぱい殴ってくれ」(62ページ)
もし、夢遊病に悩む人がこの文章を読んでいたら
辛く、奇妙な恐ろしさと不安にさいなまれているだろうと思う。
でも勇気を出して、もう一人の自分がやったことを考え、受け入れることが出来るように。
タイラーはあなたに何か伝えようとしているはずだ。
完璧な一分間にはそれだけの価値がある。(41ページ)
私は今、絵を描いている。
最初にすることは、愛用のステッドラーの青い鉛筆を削ることだ。
あの時タイラーが並べた鉛筆は、「お前が一番やりたいことから逃げようとするな」というメッセージだった。
病気とはいえ、だからこそあんなに痛く、苦しかったのだ。
タイラーは、現れたら容赦しない。一番痛いところを殴ってくるから。
私はまた いや、“私たち“は、ひとつになった。
さあ、行けよ、きみの短い人生を生きろ。だが、いいか、ぼくが監視していることを忘れるんじゃないぞ…(222ページ)
《シリアルキラー展2019》に行ってきた。
二年前 日本にこんな物が!しかも全て個人のコレクションなのか!?と、多くのその手の人々の度肝を抜いた展覧会が、今年もまた開催された。
今まで平日に行って比較的空いた中で鑑賞出来ていたのだが、今年はどうしても土曜日にしか予定が取れなかった。土日は激混み、なるべく来るな、来るなら覚悟の上…という噂は聞いていたのだが、とうとう今回から土日のみチケット事前購入、一時間入れ替え制となってしまった。
その手の趣味をはっきり自覚している人々の気持ちを代弁させていただくとするならば…
…なんだ、みんな興味ありありじゃん。
なぜ、シリアルキラーに惹かれるのか。
そんな難解でかつ自虐的な問いもない。
その自問はそのまま自身の深層、ふだん意識せずとも一番奥底にしまい込んでいる自己との対面に他ならないのだから。
ただここで、ブログに書くと決めたからには私個人の心の一片をしたためておきたいと思う。
貫き通してるのだ。
たまたま、その生き甲斐なり趣味なりが倫理的に問題があり、法に触れる事だったのだ。
それはまず誰からも理解されないだろうし、そもそも他人からの理解など求めていないだろう。
ただただ、貫き通してる。
大体、奴ら捕まっても改心してないだろ!?
改心なんてしない、サイコパスだから。
突然熱心なキリスト教に目覚めちゃってる奴もいるが、自分の行いを悔やんでなんかいない。神への愛と殺人は別なのだ。
ただ、皆が皆、全肯定で迷いなく殺人を繰り返していたわけではないだろう。
サイコパスだろうがなかろうが、人間の心理はそんなに単純じゃない。
女性を殺害した現場の壁に、口紅で「これ以上殺す前に僕を捕まえて。自分をコントロール出来ない」と書いたウィリアム・ハイレンズは、苦悩していたのかもしれない。
ナンパして殺した男性の遺体と限界まで添い寝し続けたデニス・ニルセンは孤独を感じていたのかもしれない。
シリアルキラーたちを美化するのは何か違う。
後述するが、彼らは我々とは“別世界”に住んでいる。それでも、ただひとつの事を貫き通したその点は、紛れもなく魅力的なのだ。
そしてもうひとつ、私個人的な“シリアルキラー認定ルール”がある。
シリアルキラーは二人組まで。
上記の理由から、基本的には一人、単独犯である。
だが、根っからのサイコパスがいて、万に一つの確率でその要素を持った人間と出会う。要素を持った人間が生まれついてのサイコパスに引っ張られてコンビを組む…という流れはわかる。
イギリスのムーア(荒野)殺人鬼イアン・ブレイディとマイラ・ヒンドリーがそうかもしれない。
これが三人を超えるともうだいぶ話は変わってくる。
一、二、たくさん…古代式数え方になるのだ。
二と三以上の関係は、別物。
毎回少しづつ展示内容が変わっているが、今回はITのペニーワイズ原型ジョン・ウェイン・ゲイシーとチャールズ・マンソン関連が増えていたと思う。知名度の関係だろうか。
マンソンは日本でも大変人気があるが、私的ルールでいうと、シリアルキラー枠に入れて欲しくない。
彼・彼等はカルト枠だ。
マンソン・ファンから一斉攻撃が来そうだが、さほどカリスマ性も感じない。ビートルズのヘルタースケルターを黙示と受け取って…というエピソードもよく取り上げられるが、あれはアメリカ人のマンソンがイギリス英語(というかイギリスでの言葉の意味)を理解してなかっただけのこと…ではないのか?
いや、マンソンの話は置いておいて。
緊張感溢れる展示品の中でも、毎回心揺さぶられるのは、サムの息子・デヴィッド・バーコウィッツからの手紙である。
コレクションの所有者であるHN氏は自ら刑務所にいるシリアルキラーに手紙を書いて、アート作品など制作していたら譲って欲しいと交渉しているらしい。それに対する返事である。
つまり、HN氏個人に宛てられた、本当にここでしかお目にかかれない逸品なのだ。
バーコウィッツからの気遣いであろうが、「日本に興味があります」という一文だけで震えがくるミーハーだ(私)。
サムの息子が!日本の事を祈ってくれてるよ!!
昨年は、イアン・ブレイディからの返事も展示されていた。彼はアート制作などはしていないらしく簡素な内容だったが、彼らの事件に誘発されて書かれ世界中でベストセラーとなったエドワード・ゴーリーの絵本の存在も知らないそうだ。
社会から何十年も隔絶されている彼等は、日々何を思って過ごしていた(いる)のだろう。
全盛期の活動時代の事を思い出したりするのでしょうか…?
書き出したら枚挙に暇がないほどだが、今回もうひとつ鷲掴まれたのは、展示棚の一番下にひっそりと小さなビニール袋に入って置かれていた、ゲイシーの犯行現場の土。
(前回あったかな?前回、エド・ゲインの墓石の破片はあったけど)
犯行現場…あの家の下?少年の遺体が続々と出てきたところの土?
その手の人にとっては、甲子園の土なぞ比べ物にならない代物だよ!!
さらに、アイリーン・ウォーノスが獄中から親友へ宛てた手紙にも触れておきたい。
なぜなら、目を見張るほど美しい繊細な筆跡だったから。
私は、自身が書道をやっていた事もあって、美しい文字を書くというだけでその人物のポイントが跳ね上がる。
野球に興味もないし全くの無知なのだが、イチロー選手の字の上手さを見て彼の好感度が爆上がりしたぐらいだ。
男性七人を殺してモンスターと呼ばれたアイリーンも、今ではその悲惨な境遇が原因だとか、いや元々粗暴で自滅したんだとか分析されているが、あの手紙の筆跡は、そんな後付けの心理分析よりも、彼女の真の姿を現しているのではないだろうか。
ちなみにアイリーンといえば、シャーリーズ・セロンが体重増加と眉毛抜きで挑んでアカデミー賞を取った映画『モンスター』が有名だが、私は、ドラマ『アメリカン・ホラー・ストーリー』第五シーズンでリリー・レーブが演じたアイリーン(の亡霊)の方が好き。
しかし、これだけの凄まじいコレクションを見せられると、本当に勝手なお願いめいた気持ちが出てくる。
「どうか、頑張ってグレアム・ヤングやチカチーロ関連も手に入れてください」
…いやもう、本当にどうしようもないな。勝手どころの騒ぎじゃない…。
得体の知れない緊張感と、殿堂入りを果たしている方々の一端に触れてしまったような高揚感で、どっと疲れ、げっそりとしているのにお腹一杯になったような不思議な感覚。
ここでまた、いつもの曖昧な記憶が炸裂だが、確か…確か、柳下毅一郎氏の言葉だったと思う(著作をざっと見てみたのだが見つからなかった)。
「我々がどうしても越えられない殺人という一線を越えてしまう」
しかも、繰り返し、繰り返し。
彼等は“別世界”に生きている。
だから、彼等の犯行動機も精神状態も、我々には絶対にわからないのだ。
それでも、覗こうとする。
不可解な深淵を覗きたいと思う。
なぜなら人間には、必ず不可解な部分があるから。それは我々の中にも。
コジロー、ロシアへ行く。
モスクワへ行ってきた。
ブログに書こうと思いつつ三ヶ月も経ってしまった。
そう、2月の真冬に決行したのである。
毎回魅惑的な内容でプレゼンしてくる、ロシア情報サイト・おそロシ庵さんの企画についに参加を決めて。
充実しまくったスケジュールで見たもの・食べたもの・体験したこと盛り沢山の旅だったのだが…ロシアへの想いが強過ぎて、初上陸の感慨も深過ぎて、さらには旅日記のような記事を書くガラでもないので、さてどうするかと考え込んだ挙句こんなに時間が経ってしまった。
というわけで、見る事が出来て嬉しかったもの、現地で手に入れたギフト(とあえて言う)などを思いつくまま並べてみる事にした。
①魅惑の建造物
「おお、カッコいい建物!!」と思って正面に回ったら、タス通信社。
いつもお世話になってます。
ロシアの二大新聞社のひとつ《イズベスチヤ》本社。
あ!イズベスチヤ買ってくるの忘れた!
MGMのライオン、コロンビアの女神、そしてモスフィルムのアレ!!
…写真小さい、小さいよ!(たぶん近くに行けば超デカいと)
泊ってないけど超高級ホテルのホテルモスクワ。
あまりの大きさに遠近感が無くなるほど。
ダークソウルシリーズの巨大建造物のよう。
中に入ると、そこら中に「こちらからは開かない」扉があり、ショートカットのエレベーターがあり、最奥には泣きたくなるほど強いボスがいるのだ。
後述する、お土産市場。テーマパーク感満載。
実は滞在中非常に暖かい日が続いて(零下3度くらい) 、この最終日は油断してマフラーもカイロも極暖衣類も着ていなかったのだけど、いきなり気温が下がり、寒くて市場内の写真が全然撮れていない。
②喫煙事情
(非喫煙者の方には不快な内容が含まれているかもしれません。嫌煙者の方は飛ばしてくださって構いません。というか飛ばしてください)
なぜゴミ箱の写真をパシャパシャ撮りまくっているのか…これは、ゴミ箱にしてゴミ箱にあらず、灰皿だからだ!!
出国前、〈ロシアは公共の建物内では禁煙〉との情報を得、6日間禁煙するくらいの覚悟を決めていた。タイのように、レストランやホテルの外には灰皿があるといいな…と希望を抱きつつ。
ところが!
ロシア、喫煙規制に関してはユルユルである!
情報通りホテルや店内は禁煙でたいてい外に灰皿が設置されているが、地元モスクワ市民の動向を観察していると、町中にあるただのゴミ箱にポンポンと吸い殻を投げ入れていく…どころか、ゴミ箱の周りが喫煙所と化していたりする。
ううう、こ、これって…(←泣きそう)
夜のモスクワ散策。スターバックスのタンブラーを買いに他の参加者の方々が店内に入っている間、私は外で一服していた(本当の灰皿で)。買い物を終えた皆さんが出てきたので煙草をもみ消そうとすると、おそロシ庵・千葉さんが 「たぶん(歩き煙草)大丈夫」。
その晩、私は十数年ぶりに歩き煙草をした。
モスクワの冷たい空気をたっぷり吸いながら。
それは紛れもなく《自由の味》だった!!
こんなおいしい煙草、いつぶりだろうか!
愛煙家のみんな、ロシアをめざせ!!
なぜって、こんな風景の中で誰に咎められる事も無く吸えるんだぜ!!
③ウラジミール・ヴィソツキーのDVD
ギター一本、独特のしわがれ声で体制批判を歌い続けた旧ソ連のミュージシャン、詩人。
魂の叫びとはこの人の声。
これをロックと言わずしてなんと言う!!
ここ日本ではほぼ手に入らない彼の作品…ディスクユニオンに行って自慢したいくらいだ!(大きく出た)
いろいろと動画も配信されているので機会があればぜひ観て欲しい。公式もあるようだが個人の編集が多いので埋め込みはやめておくが、代表曲の《オオカミ狩り》の日本語訳付きなどもある。
私の曖昧な記憶で申し訳ないが、その昔《ダウンタウンDX》でクイズをやっていて、日本ではほぼ無名の英語圏以外のアーティストの映像を流し、「なんと歌っているでしょう?」という無茶苦茶な問題が出る、最高に面白いコーナーがあった。
そこでこのヴィソツキーの映像が問題として流れた事があるのだが、放映後、局に「あのアーティストは誰ですか」という問い合わせが殺到したという。
ネットの無い時代の熱いエピソードのひとつとして記憶している。
④旧ソ連グッズ
お土産市場に溢れた夢のような旧ソ連グッズ。お土産屋さんばかりだし、完全に観光客向けだろうが、私は観光客だ!
「HET!」(ソ連国民はお酒は飲みません!)コースターで酒を飲む幸せよ。
そしてプロパガンダポスター24枚セット。“ゴールデン・コレクション”ですよ。
今回嬉しかったのは本屋さんに行けた事。
購買欲求を抑えるのが大変だったが、小説や絵本などを購入。
そしてこれ、買わずにはいられなかった、レーニンの漫画!!
〈世界の偉人シリーズ〉のひとつらしいが、絵も上手く巻末には簡単な資料も付いてオールカラー、479ルーブル。820円くらい?
レーニンといえば…
この旅で唯一観たレーニン像(後ろのヒュンダイが無ければ最高なのに)。
その昔、スターリン主導で全国にエンヤコラサと造られたレーニン像の多くが取り払われたり別の像に置き換えられた。
宿泊したホテルの正面にも超デカい銅像があって(ちなみにポケモンGOのジムだった)、「あれは誰ですか」と尋ねたところ、千葉さん曰く「以前はレーニン像だったけど、今建ってるのはフランスかどこかの建築家。このホテルには縁もゆかりも無い人」とのこと。
これは極東の小さな島国の一共産趣味の人間の独り言に過ぎないのだが
…全部レーニン像に戻しちゃえばいいのに。
⑤旅の目的・その1
さくらんぼのジャム。
なぜさくらんぼなのかと問われれば…アレクセイ・カラマーゾフの好物だからに決まっているではないか!
ドストエフスキー愛読者(と書いてミーハーと読んでもいい)としては、なんとしてでもロシアでこれを買わねばならなかった。
私の小さい頃はさくらんぼのジャムなどお目にかかった事が無く(山形県とか行けばあったのかもしれないが)、大人になって初めてフランス産の物を食べた時、そのおいしさにビックリした。日本でよくある苺やラズベリーよりもすっきりした甘さ。
モスクワで購入したこのジャムは、ロシアではメジャーなメーカーとのこと。
さらりとした緩いタイプで、さくらんぼがゴロゴロ入っている。
凄くおいしい!おいしいよ!!
あれは18,9歳の頃。
冬は隙間風が通り抜け、夏は天然サウナと化し、春秋に窓とドアを開けて風通ししているとノラ猫の通り道になるというオンボロアパートに住んでいた頃。
金色にブリーチしまくった髪を山口雅也氏のキッド・ピストルズの如く天に向かっておっ立てて、『カラマーゾフの兄弟』を読みながら「いつかロシアのさくらんぼのジャムを食べてみたいなぁ」と思っていた。
あの頃夢想した事のほとんどは成し遂げられていないが、
さくらんぼのジャムは食べたぜ!!
いつか、本当に食べられる日が来るからな!
これからも、お前の身には想像を絶する困難が数々待ち受けているが、お前はそれを乗り越え、ロシアに行く日が来るからな!!
⑥旅の目的・その2
私は日本のパンクバンド、ザ・スターリンのファンである。
バンド名の由来は「世界で最も嫌われている名だから」。
そして、日本最高のパンクバンド。
クレムリンをバックにザ・スターリンのアルバムの写真を撮る事。
今回クレムリンの中には入らなかったが、外壁で撮る事が出来た。
前回のブログに挙げた写真とは別のバージョン。
ここまで来るのに何十年かかっただろう。
ロシアはずーっと私にとって憧れの地であった。
近くて遠い国だった。
東京っ子の私は、モスクワについた時から滞在中、ずっと感じていた事がある。
こんな意見は聞いた事は無いが、
モスクワは東京に似ている。
スケールも違うし広告が溢れている訳でもない。
でも、確かに似ている。
東京の印象とは 「賑やか」「うるさい」「華やか」「人が冷たい」「最先端」…いろいろ聞くが、たぶん東京っ子はそんな印象持っていない。
東京は「暗い」。
この話を東京出身者にすると、皆頷く。
東京は「暗い」のだ。それ以下でもそれ以上でもない。卑下している訳でもない。
何度も「全て無くなってしまった」歴史かもしれないし、多くの人が集まり、弄り回され、多種多様な物が混在し詰め込まれるカオスかもしれない。
モスクワは「暗い」。
その理由はまだはっきりとはわからないが感覚的にそこが似ていると思ったのだろう。
つまり私にとって居心地がいいのだ。
多くの国に行った訳でもないが、日本ですら「東京以外には住めない」と思っている私が、初めて「住んでもいいな」と思った都市だ。
あの、でっかくて飾り気のない灰色の集合住宅に住んで、ロシアの変なSF小説みたいな漫画を描きたい。
荒波を超え、いろいろなものを失った病み上がりで、他のツアー参加者の方々に迷惑をかけないだろうか…という不安もあった。だが、皆さんいい人ばかりだった。
(おそらく)私の人生の節目にロシアへ行く機会を与えてくれた、おそロシ庵の千葉さん、カーチャさん、本当にどうもありがとう。
そして、不意に思い立って昼間に電話で問い合わせた時、丁寧に対応してくれた大陸トラベルの大森さん、どうもありがとう。
私はまたいつかロシアに行くだろう。
煙草吸いにね。
=追記=
現在はカールソン・レジドール・ホテルズに加盟し、正式名称は《ラディソン・ロイヤル・ホテル・モスクワ》。
正面からの写真を見たら、両方の名が掲げられていた。
なんだか複雑だが、やはりきっとあの中はダンジョン…
一年に一度は読み返す、静かな傑作《蜂工場》
- 作者: イアン・バンクス,野村芳夫
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1988/03/18
- メディア: 文庫
- 購入: 7人 クリック: 367回
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一生に数度あるか無いかの体験をした本である。
10代の終わり頃、スティーヴン・キングを読み始めてめでたくホラー小説に開眼した私は、タイミングよく発売された《モダンホラー読本》というガイド本に大変お世話になった。
当時、月刊オーパスという本の雑誌があり、(たぶん)ほとんど売れていなかったと思うがなかなか面白かった。そのオーパス編集部による、キング以降のモダンホラー小説オールガイド。
小説紹介以外にも、早川書房・東京創元社のホラー担当者の対談から、菊地秀行氏・竹河聖氏によるエッセイ、代表的なモダンホラー映画監督の紹介ページなど盛り沢山のとても贅沢な本!
レリジョン/モンスター/サイコホラーなど独自にジャンル分けし、簡単にストーリーが載っている。そこから、興味を持った本を片っ端から買い、読み漁った。
その中に、この本があった。
異様な雰囲気の漂うタイトルに、正直「だから何なんだ…」と言いたくなるようなストーリー紹介。でも、何かが引っ掛かった。
神保町の某書店で調べてもらうと、「廃版ですね」という答え。
どうしても読みたいというわけでもなかったが、《イアン・バンクス》《蜂工場》という言葉は常に頭の片隅にあって、古本屋に立ち寄った時などに、ふと思い出して棚を覗いてみたりしていた。だが一度も、熱心に探し回った事は無い。
そして時は流れ
ある日amazonで小説を購入しようと思った時、それはやってきた。
脳内に遠くから囁きが…
《蜂工場》
そういえば、インターネットが普及してから(!)探した事が無かった。
一応打ち込んで見てみると なんと、お手頃価格の中古本が一冊出品されているではないか。…一冊!
光の速さで購入し、数日後、遂に私は十数年越しで対面することになった。
何かを長年思い続けた時…見たいなぁ、会いたいなぁ、体験したいなぁ、読みたいなぁ…などと願い続け、意識せずともその期待がどんどん膨れ上がってしまうというのはよくある事だ。で、実際にその時がやってきた時、その膨張しまくった期待を上回る事は…実はほとんど無かったりする。
《蜂工場》に至っては、なんと十数年かけて膨らませ続けてしまった。たった三文字のタイトル、120字あまりのストーリー紹介、2×3センチほどの表紙写真から。
ここはいったん落ち着くべき。
現物を手にしながら、「結末は誰にも話さないでください」という文字を冷静に見つめる(本当にタイトルの下にそう書いてある!)。
その休みの日、私は一気に読み終えた。
……それは、いつの間にか破裂しそうなほどに膨れ上がっていた期待を、はるかはるか上回る内容であった!!
この瞬間。この瞬間のために、このタイトルは君の頭の中でひっそりと生き続けていたのだよ。たとえほとんどの書店から姿を消そうが、この爆発の火種は、常に世界のどこかでじっと君を待っていたのだ。
主人公のフランク(16歳)は、スコットランドの小さな島で父親と暮らしている。
彼はなぜ学校に通っていないのか、父親は何をしているのかもよくわからない。フランクは日々、儀式の様に小動物を殺して遊んでいる。
“蜂工場”というのは、彼が作ったお告げ機械のようなもの。大きな時計の文字盤に細工を施し、中に蜂を閉じ込める。12の数字はそれぞれ回廊のような仕切りで分けられ、その先にはそれぞれ仕掛けがある。炎の湖、毒液、溺れ死に…それはお告げであり、どうやらフランクはそのお告げを人間にも実行している。
奇妙なフランクの生活は淡々と描かれ、その静けさがどんどん狂気じみてくる。
さらに、彼にはエリックという兄がいる。
医学生だったエリックは、“何か”が原因で精神病院に入っていたのだが、突如脱走。家へと帰って来る途中途中でフランクに電話をかけてくる。意味不明な会話、異常に兄を恐れるフランク…
そして物語半ばを過ぎた頃、遂に、“エリックが狂った原因”が明かされるのだが……
読み終わったあと、ネットでいくつかレビューを発見したが、ほぼ全員同じ感想を持っていた。そして私も。
“エリックが狂った原因”が怖すぎる。
恐怖小説、ホラー小説、サイコパスなミステリーまで、ある程度の耐性はついていると自負してきたつもりだが、これは想定外の衝撃だった。
どれくらい凄かったかと言うと、問題のページで「こ、これはもしや…」と思った瞬間、いったん本を閉じてしまった!!
深呼吸しなければ先が読めなかった。
はっきり言って、ラストのどんでん返しもさることながら(結末は誰にも話さないでください)、この小説最大のクライマックスはこの部分である。
同じ頃に発売された震撼のスプラッター小説・クライブ・バーカー《血の本》全6巻を、《蜂工場》はたった4ページほどで凌駕している。
アレだ。
『ほとんどの人にお勧め出来ないけど実は全人類に読んでもらいたい傑作』。
199ページ目にして認定。
よく小説などで“狂ってしまった人”が出てくるが、その経緯を読んで、「そんな理由で…イっちゃうの?」と思う事がたまに…いや、よくある。
その時代特有の重圧だとか、肝心要のキャラクター心理を理解していないとかかもしれないけど。
心理学者の河合隼雄先生曰く、「人間の精神とは、皆さんが思っているよりもずっとずっと脆いのです」 だそうだ。
今は少しわかるようになったが。
だがしかし。
エリックのことはわかるよ!
これは…狂うよ!!仕方ないよ!!!
オマケの様に書いておくが、ラストはちょっと感動的だ。ここは意見の分かれるところだと思うが、個人的に美しい終わり方だと思う。オチへ向かって怒涛の展開を見せるが、一貫して不気味な静けさを感じさせる文章力は、これがデビュー作とは思えぬ手腕だ。
その後一年に一度は読み返しているわけだが、二回目以降、あまりにあまりな物語なので私は頭の中で兄エリックを若かりし頃のジョナサン・リース=マイヤーズに演じてもらっている。
「悲惨な目に合う主人公は、見た目のよい俳優が演じないと観客が観ていられない」とド正論を吐いたのは、《レクイエム・フォー・ドリーム》を撮った時のダーレン・アロノフスキーだったか。
(エリックは主人公の兄だけど)。
作者のイアン・バンクスは他にも何冊か日本でも翻訳されているが、本国イギリスではずっと人気のある有名な作家だったらしい。だった、というのは2013年に亡くなってしまったからだ。合掌。
ところで、前述の河合先生の言葉には続きがある。
「人間の精神とは、皆さんが思っているよりもずっとずっと脆いのです。同時に、皆さんが思っているよりも、はるかに強いのです」
いつでもこの言葉を思い起こさせてくれる物語、それが《蜂工場》。
手に入れるのは難しいかもしれない。
でも、未読の方がいたら、なんとなく頭の片隅に入れておいてくれたら嬉しい。
《イアン・バンクス》《蜂工場》
今日もきっと、世界のどこかで静かな爆発が起きている。
=追記=
なんと、先月(2019年3月)にハードカバーとして復刊されていた事が判明。
しかも改訂・完全版。
名作を世に残そうとする偉大な仕事、Pヴァインさん素晴らしい。
寺山修司の誕生日に思い出す私的なこと
本日12月10日は、故寺山修司氏の誕生日である。
私は彼の熱狂的なファンでもないし、熱心な愛読者とも言えない。
が、私が人生で初めて彼の文章に、彼の存在に触れた時の事は今もって忘れる事が出来ぬ瞬間であった。
あれはまだ私が小学生の頃だった。
イギリスの作家・キット・ウィリアムズが手掛けた『仮面舞踏会~マスカレード~』という絵本が出版された。
中世の細密画の様な美しい絵に、摩訶不思議な登場人物たちが次々と登場して『不思議の国のアリス』の如き謎々を仕掛けてくるこの絵本は、本自体が大きな謎解きとなっていて、見事その謎を解き明かすと、作者手作りの首飾りが本当に手に入るという《宝探し》絵本であった。
無論、このお宝が隠されているのは遠く離れたイギリスのどこか、そもそも英語の関連する謎解きや言葉遊びが私に解けるわけもなく、肝心の謎解きに関してはさっぱりだった。
しかし、私はこの絵本に魅せられた。
何より、狂気を孕んでいるとしか言えない登場人物たちの顔。当時すでに、絵本や児童文学に対しても毒やブラックユーモアや理不尽さを求め始めていた私をときめかせるに十分な内容だった。
夢中になって毎日の様に眺め続けていたある日のこと、ふと私は、それまで気に留めていなかった帯の裏側に書かれた文章を読んでみた。
それは、ほんの数年の私の人生経験の中でも、いやもっと短い読書体験の中でも、鮮烈な文章であった!!
……とここで、ひとつ告白しなくてはならない。
今回ブログを書く為に、押し入れの奥底から絵本を発掘したのだが、なんと、記憶にある赤い帯が付いていないではないか!外してそのままどこかへ……というパターンか。
なんという落ち度……。
というわけで、今となってはそこに書かれていた正確な文章はわからない。もし、今もきちんと保存している方が居たら「そんな文章じゃないよー」とツッコミが入るかもしれない(というかもしお持ちの方が居たらぜひとも見せていただきたい!)。
記憶なんてものはあやふやで、いつの間にやらよくわからない尾ひれが大量に付くものである。しかし、あの時感じた驚きと興奮は確かなもの。そのあたりを考慮して読んでいただけると幸い。
さて、問題のその文章。
どこの誰だか全く知らないが、「僕も謎解きに挑戦してみた」という内容。
「もしかしたら、表紙の少年がヒントになっているのかもしれない。彼が着ている服は緑と黄色の縞模様、“緑”と“黄色”を英語にして、さらに二つの単語を一文字ずつ順番に並べてみる…そして、下の部分の模様は“星”だから…」
という具合に、彼の“推理”が書かれていたのである。
ここでもう一度言っておくが当時私はまだ年齢はひとケタで、ホームズすら読んでいなかった。
そう、その文章はおそらく私が人生で最初に目にした《考察文》なのである!
なぜだかドキドキする胸の高鳴りを抑えきれず、私は父親のもとに飛んで行ってその帯を見せてこう言った。
「この人、凄く考えてる!!」
…ああ、子供の語彙力の無さよ。しかし当時の私には自分の気持ちを伝える精一杯の言葉だった。
どれどれ、という感じで覗き込んだ父親は一言、
「ああ、寺山修司か」。
…その反応に対して、(ん?)と思ったものの、興奮冷めやらぬ私は、居間に現れた兄を見つけて飛んでゆき同じ様に本を差し出し、
「この人、凄く考えてる!!」
すると兄は帯を読んで…
「ああ、寺山修司か」。
二人の全く同じ反応から子供心に読み取った真意は、
「この人ならそれぐらい考えるよ」
という共通の印象。
そんなわけで、私にとって寺山修司という人物の印象は、実際に氏の著作を読む遥か以前から《凄く考える人》となった。
もちろん、最高にいい意味で。
父親が好きだったのだろう、私の家には幼いころから谷川俊太郎氏の本が沢山あった。マザーグースも氏が翻訳したものだった。
特に『ことばあそびうた』と『マザーグース』はお気に入りで、今でもその多くを暗唱出来るほど読み続けた。私は谷川氏から詩の書き方を自然に学んだ。
『マスカレード』の帯の文章は私に、“推理すること”、“考察すること”、果ては“ものを考えるということ”を教えてくれたのだと思う。
それは、宝石の首飾りよりも貴重なものかもしれない。