かねて知を恐れたまえ

映画や本、ゲームについて。絵も描いています。

寺山修司の誕生日に思い出す私的なこと

本日12月10日は、故寺山修司氏の誕生日である。

私は彼の熱狂的なファンでもないし、熱心な愛読者とも言えない。

が、私が人生で初めて彼の文章に、彼の存在に触れた時の事は今もって忘れる事が出来ぬ瞬間であった。

 

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あれはまだ私が小学生の頃だった。

イギリスの作家・キット・ウィリアムズが手掛けた『仮面舞踏会~マスカレード~』という絵本が出版された。

中世の細密画の様な美しい絵に、摩訶不思議な登場人物たちが次々と登場して『不思議の国のアリス』の如き謎々を仕掛けてくるこの絵本は、本自体が大きな謎解きとなっていて、見事その謎を解き明かすと、作者手作りの首飾りが本当に手に入るという《宝探し》絵本であった。

 

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無論、このお宝が隠されているのは遠く離れたイギリスのどこか、そもそも英語の関連する謎解きや言葉遊びが私に解けるわけもなく、肝心の謎解きに関してはさっぱりだった。

しかし、私はこの絵本に魅せられた。

何より、狂気を孕んでいるとしか言えない登場人物たちの顔。当時すでに、絵本や児童文学に対しても毒やブラックユーモアや理不尽さを求め始めていた私をときめかせるに十分な内容だった。

 

夢中になって毎日の様に眺め続けていたある日のこと、ふと私は、それまで気に留めていなかった帯の裏側に書かれた文章を読んでみた。

 

それは、ほんの数年の私の人生経験の中でも、いやもっと短い読書体験の中でも、鮮烈な文章であった!!

 

……とここで、ひとつ告白しなくてはならない。

今回ブログを書く為に、押し入れの奥底から絵本を発掘したのだが、なんと、記憶にある赤い帯が付いていないではないか!外してそのままどこかへ……というパターンか。

なんという落ち度……。

というわけで、今となってはそこに書かれていた正確な文章はわからない。もし、今もきちんと保存している方が居たら「そんな文章じゃないよー」とツッコミが入るかもしれない(というかもしお持ちの方が居たらぜひとも見せていただきたい!)。

記憶なんてものはあやふやで、いつの間にやらよくわからない尾ひれが大量に付くものである。しかし、あの時感じた驚きと興奮は確かなもの。そのあたりを考慮して読んでいただけると幸い。

 

さて、問題のその文章。

どこの誰だか全く知らないが、「僕も謎解きに挑戦してみた」という内容。

「もしかしたら、表紙の少年がヒントになっているのかもしれない。彼が着ている服は緑と黄色の縞模様、“緑”と“黄色”を英語にして、さらに二つの単語を一文字ずつ順番に並べてみる…そして、下の部分の模様は“星”だから…」

という具合に、彼の“推理”が書かれていたのである。

ここでもう一度言っておくが当時私はまだ年齢はひとケタで、ホームズすら読んでいなかった。

そう、その文章はおそらく私が人生で最初に目にした《考察文》なのである!

 

なぜだかドキドキする胸の高鳴りを抑えきれず、私は父親のもとに飛んで行ってその帯を見せてこう言った。

「この人、凄く考えてる!!」

…ああ、子供の語彙力の無さよ。しかし当時の私には自分の気持ちを伝える精一杯の言葉だった。

どれどれ、という感じで覗き込んだ父親は一言、

「ああ、寺山修司か」。

…その反応に対して、(ん?)と思ったものの、興奮冷めやらぬ私は、居間に現れた兄を見つけて飛んでゆき同じ様に本を差し出し、

「この人、凄く考えてる!!」

すると兄は帯を読んで…

「ああ、寺山修司か」。

 

二人の全く同じ反応から子供心に読み取った真意は、

「この人ならそれぐらい考えるよ」

という共通の印象。

 

そんなわけで、私にとって寺山修司という人物の印象は、実際に氏の著作を読む遥か以前から《凄く考える人》となった。

もちろん、最高にいい意味で。

 

父親が好きだったのだろう、私の家には幼いころから谷川俊太郎氏の本が沢山あった。マザーグースも氏が翻訳したものだった。

特に『ことばあそびうた』と『マザーグース』はお気に入りで、今でもその多くを暗唱出来るほど読み続けた。私は谷川氏から詩の書き方を自然に学んだ。

 

『マスカレード』の帯の文章は私に、“推理すること”、“考察すること”、果ては“ものを考えるということ”を教えてくれたのだと思う。

 

それは、宝石の首飾りよりも貴重なものかもしれない。