『ファイト・クラブ』は✖✖✖✖の物語ではない。
☆はじめに☆
このブログでは、小説(映画版含め)のネタバレを初っ端から盛大にするので、これから読みたいと思ってる方、物語・ラストを知りたくない方は閉じるように。
また、引用はすべて『ファイト・クラブ[新版]』(早川書房)からによる。
遂に『ファイト・クラブ』について書く時がきた。
原書の発売は1996年、日本語翻訳版1999年、映画版公開は同じく1999年、そして長らく廃版となっていた日本語版復刊が2015年である。
この約21年、厳密に言うとここ5、6年の間に私に何が起きたのか。
なぜ、初読時には予想だにしなかった感情をこの作品に対して持つに至ったのか。
そしてなぜ、すべての終わりと始まりがステッドラーの鉛筆なのか。
目を覚ます、それだけで充分だ。(41ページ)
『ファイト・クラブ』あらすじ
主人公“ぼく”は、大手自動車メーカーに勤務し、完璧なマンションに住み、完璧な北欧家具に囲まれ、完璧な暮らしをしている。そして、慢性的な不眠症だ。眠れない苦しみを医者に訴えると、「本当の苦痛を見てくればいい」と重病患者の集まる互助会の存在を教えられる。ガン患者の集会で、器質性脳障害の集会で、住血寄生虫宿主の集会で、“本当の”患者たちと抱き合い、泣くことによってぼくはすべての希望を失い、自由になり、生を実感し、生き返る。そして眠りにつくことが出来るようになった。
だが、ある時から集会でひとりの女を見かけるようになる。自分と同じ詐病。マーラ・シンガーが登場する。偽物の彼女がいるとぼくは泣けず、また不眠症になる。ぼくたちは二人が同じ集会で出会わぬよう、参加するグループを分ける取り決めをする。
ある日休暇で行ったビーチで、ぼくはタイラー・ダーデンと知り合う。野性的で、物知りで、欲望のままに生きるタイラー。ぼくの部屋が何者かによって爆破されたことがきっかけで、ぼくはタイラーの家で一緒に暮らすことになる。その代わり、「おれを力いっぱい殴ってくれ」と彼は言う。
ファイト・クラブの始まり。ただ闘うだけ。勝敗は関係ない。ファイトに参加する男たちはどんどん増えて、クラブは大きくなる。
メンバーはタイラーに心酔し、絶対的な信頼と忠誠を誓う。
ぼくはおいてけぼり。
タイラーは大きな計画を進めていた。騒乱(メイヘム)プロジェクト。世界を吹き飛ばし、文明を解体する。今やタイラーの組織した軍隊はアメリカ中にいる。あちこちで襲撃や爆破事件が起きている。
タイラーを止めなければいけない。
ぼくは消えたタイラーを追う。各都市のファイト・クラブを訪ねて回る。
「またいらしてくださいましたね、サー」
ぼくはこのバーに一度も、一度も、そう、たったの一度だって来たことがない。
……
「あなたは先週もいらしたでしょう、ミスター・ダーデン」(226ページ)
“ぼく”が、タイラー・ダーデンだった。
ぼくが眠ると現れるタイラーが行動していた。
ぼくの部屋を爆破したのはぼくだった。完璧な世界を破壊するため。
タイラーはマーラと関係を持っている。マーラはぼくたちの見分けがついておらず、ぼくを欲しがっている。ぼくはタイラーが欲しい。
でも、タイラーを始末しないといけない。
彼の軍隊が金融企業ビル群を爆破する前に。
そしてぼくは、ぼくの口に銃口を突っ込む。
多くの人が、『ファイト・クラブ』は二重人格の物語だと思っている。
実際、これまでに見かけた書評も映画評も、ほぼ100%がなんの迷いもなくそう書いていた。
私もそう思っていた。
タイラーが現れるまでは。
結論を先に言う。
『ファイト・クラブ』は二重人格の物語ではない。
これは【夢遊病】の物語である。
私は医学に関しては素人だ。
しかし、夢遊病体験者である。
自己の体験によりこの物語の真なるテーマが見えた今、ようやくこの文章を纏める時が訪れた。後述するが、それには長い長い時間を要し、同時に決意が必要であった。
二重人格と夢遊病は、まったく別の病である。
二重人格(多重人格)の正式名称は、解離性同一性障害。
夢遊病の正式名称は、睡眠時遊行症。
解離性同一性障害を発症する主な原因は、ストレスや心的外傷といわれる。過去もしくは現在のつらい体験によるダメージから自身を守るために別の人格があらわれるという。
一方、夢遊病の原因は様々だ。睡眠時間の乱れ、睡眠不足、疲労、身体的・肉体的ストレス、そして向精神薬による副作用など。
夢遊病の発症は幼少期が圧倒的に多く、大人では稀だそうである。
私は、睡眠剤による副作用で発症した。
過去のブログでも多少触れてきたが、私は数年前に大病を患った。私にとっては大病、まさに人生を変えられてしまった。
診断名は統合失調症。
今回のテーマから多少外れてしまうので軽く説明するに留めるが、おそらくほとんどの人と同様、この病気に関して私は無知だった。
統合失調症の原因は今もって不明であり、およそどの国、どの民族においても約100人に一人の確率で発症する。
あの時、私はそれなりにハッピーに過ごしていたと思う。裕福ではなかったけれど、特に大きな悩みも無く、プロデビューを目指すべく漫画を描く日々だった。
発症第一日目のことをよく覚えている。
起きたら、世界が暗かった。実際、灰色がかって見えたのだ。
そして何もやる気が起きなくなっていた。
疲れが溜まっているんだろうと思っていたが、症状はまさに転落するかの如く一気に悪化した。そこに無いはずのものが見え、聞こえるようになった。うつ症状(うつ病とは違う。とても判断が難しいので専門家=医者に任せること)から始まり、幻覚・幻聴・妄想と、典型的な症状が続々現れていった。
さらに、もともと不眠症を患っていたので睡眠剤を常用していたが、まったく効かなくなった。
今思えば、総合病院に通っていたことが良かったのだと思う。
たとえ調子が悪くても、身内に患者がいたりしない限り「もしかして自分は統合失調症かな」などと思わないからだ。事実私は、不眠症がひどくなっただけ、と思っていた。明らかな幻覚を見ているのに!
いつもの内科医になんとなくそれを伝えた時、相手の顔色が変わったのも覚えている。
「ぼくが精神科の先生にお手紙を書きますから、今日必ず予約を取って帰ってください」と言われ、ようは精神科に回してくれたのである。
そのおかげで、私はかなり初期の段階で治療を始めることが出来た。
闘病の体験は割愛させていただくが、何よりこたえたのが、絵を描けなくなったことだった。
心理的に、ではない。描き方をどんどん忘れていったのだ。パースの取り方も、木々の描き方も、長いアシスタント生活で身に付けたあらゆるテクニックが、私の頭の中から次々消えていった。
絵を描くことが人生の中心にあったことを痛感した。
なぜなら、描けなくなった私には何も残っていなかったから。
「おめでとう。どん底に一歩近づいたな」(108ページ)
大量の向精神薬投与が始まった。
統合失調症の治療薬、精神安定剤、副作用による便秘改善薬、そして「まずは寝ないとダメです」と、より強力な睡眠剤。
ここでひとつだけ書いておきたいのは、精神病を患い向精神薬による治療を行っている患者に対して絶対に言ってはいけない言葉があるということ。
「そんなにたくさん服用して、大丈夫?」
禁句である。心配しているなら尚更。
こういった言葉を私は“無責任なアドバイス”と呼んでいるが、はっきり言って素人が口を出すところじゃない。他の病でもそうかもしれないが、統合失調症やうつ病など精神病の治療に処方される向精神薬は、ひとつ飲んでぱーんと効くわけではないのだ。二種類、時に三種類以上の薬のコンビネーションなのだ。人によって効き目は違い、副作用もある。一番良い処方を見つけるまでが実はとても大変な道のりなのである。
突然大量の薬を処方され、一番不安になっているのは患者本人であろう。そこで素人の無責任なアドバイスにより不安が倍増して、服用を止めてしまったら?治療はストップしてしまう。つまり、症状は悪化する。
その責任が取れるだろうか?
少し話が脱線した。睡眠剤の話に戻ろう。
結局私は、三種の睡眠剤を服用することになる(現在は、法改定により一人に対して処方出来る睡眠剤は二種類まで)。
そのひとつが、マイスリーだった。
誤解無きよう書いておくが、マイスリーは良い薬である。助けられている人も大勢いるだろう。私も、ようやく辿り着いたその三種のコンビネーションで、久しぶりに眠りにつくことが出来た。
異変を感じたのは、一、二週間後であった。
どう言えばよいのかわかないが、朝起きてみると何かがおかしい。
台所の流し台に、明らかに食べ終えた後の食器が置いてある。
ベランダに置いてあるサボテンに、水をやった形跡がある。
本棚に並べてあったはずの本が床に積まれている。
私は喫煙者で、眠りにつく前、灰皿を空にして内側を拭いておくという習慣があるのだが、朝見るときれいになった灰皿に吸い殻が一本転がっている。
これが家族やパートナーと同居している人だったら、同居人が気づくであろうが、私は一人暮らしなのでその真実に気づくまでしばらくかかった。
決定的だったのは、ある晩のこと。
アクティブなことが何も出来なくなっており、仕事場と家との往復が精一杯で、休みの日も病院以外では外出する気力がなくなっていたので、読む本が無くなっていた(もっとも、読書に対する情熱も薄れていたが)。
そういえばスマホに最初から入っていたGoogle Books、電子書籍を買う習慣がないのでほとんど開いたことがなかったが、いつの間にかサンプルが勝手に増えていたりする。何か読みたいものはないかな…と思って久しぶりにアプリを開いてみた。
するとそこには、“買った覚えのない”書籍がズラッと並んでいたのである。
「私、夢遊病だ」
医者にその事を報告すると、処方を変えようかという話になった。夢遊病で一番怖いのは、外に出てしまうこと。普通にコンビニに行ったり、車を持っていればそれに乗ってどこかへ行ってしまったりする。
家族がいれば誰か物音に気づくだろうが、一人では止めてくれる人もいない。
夢遊病の時は基本ボーっとしている感じなので、事故や事件に巻き込まれるのが一番心配だという。
しかし、私はしばらくこのままでいいと言った。正直、また合う薬のコンボを見つける苦労を考えると、その他の吐き気や頭痛といった副作用を思い出すと、もう変えるのは嫌だった。
医者はひどく心配な様子だったが、様子を見るということにしてくれた。
ところで、夢遊病に対してどんな印象を持っているだろうか。
夜中にムックと起き上がり、ふらふらと歩き、意味不明なことをする?
私はマイスリー服用中、週に一、二回の頻度で夢遊病を起こした(朝の痕跡に気づいただけで、もっと起きていたのかもしれない)。
その不気味な…そう、不気味だった。はっきり言って、怖かった。夜中の“もう一人の自分”の行動は、まったく記憶に無かった。
だが、その“もう一人の自分”が残した痕跡によってその行動を推測していくうちに、私はあることに気がついた。
“そいつ”は、私が嫌だと思うことは決してしない。
どころか、“私が心のどこかでしたいと思っていたこと“をやっているんじゃないか?と。
あれは梅雨の時期だった。そろそろ多肉植物たちに水をやらないとな…でも雨が降るかもしれない…と気がかりのまま水やりしないでいた。
床に積み上げられた『ジョジョの奇妙な冒険』を見て、そういえば久しぶりに第六部が読みたいと思っていたことを思いだした。
Google Booksに並んだタイトルは、以前どこかで見かけて「電子版のみの発売か…いつか読みたいな」と思った書籍だけだった。
夜中に目が覚めればお腹が空いているだろう。一服したくなるだろう。
“そいつ”は、私の欲望のままに行動してるのだ。
昔バイト先にいた人が、夢遊病になったという話をしていた。夜中に二階からゴトンゴトンという音がして目を覚ました母親が、彼の部屋に行ってみると一人でタンスを押している。「何してるの?」と聞くと、「移動させたくて」。その様子から、寝ぼけてるなと思った母親が「もう遅いから明日にしなさい」と言うと素直に寝たという。翌朝、起きたら家具の位置が変わっていてビックリしたが、「ちょうど模様替えしたいと思ってたから」と本人は笑っていた。
ある朝目覚めたら車の中でどこか知らない街にいた、というような話を聞いたことがないだろうか。たぶんドライブしたかったのだろう。もしくは、どこかへ逃げたかったのかもしれない。
そのことに気づいた私は、『ファイト・クラブ』を思い出した(ようやく本題に!)。
ああ、まるでタイラー・ダーデンだ。
タイラーは、主人公がしたかった事をしていたじゃないか。あれは、夢遊病の話だったのだ。
それは間違いない。だが真実はもっともっと深いところにあったのだ。
あの時私は病気だった。それ以上は考えられなかった。喜怒哀楽がほとんど無く、思考も鈍くなっていた。
タイラーの“痕跡”は、どこか不可解なところがあった。
当時私は朝食にオールブランを食べていたのだが、いつも同じボウル型の食器を使っていた。その食器は流し台に置かれていたが、スプーンはガス台に突き刺さっていた。
丸い灰皿とライターと煙草は、きっちりと等間隔で、横に並べられていた。
植物の水やりに使うジョーロは、浴槽の中に逆さに置かれていた。
タイラーは夜中に食事をし、一服して、電子書籍を買い、植木鉢の位置を変えた。
私は医者に報告を続けた。
だがひとつだけ、誰にも言えなかった“タイラーのやったこと”がある。
私の机には、PCとトレース台、画材が置かれている。
半年以上、触れることもしなかった画材。
ペンは錆び、筆立てには削られることのないステッドラーの青い鉛筆が立ち、インク瓶にはうっすらと埃が積もっている。
ある朝ふと机に目をやると、その光景があった。
トレース台の上に、7本の鉛筆がきっちりと並べられていた。
不揃いの長さの使いかけの鉛筆が等間隔に整然と置かれたその異様な光景は、何故だかわからないが私をひどく苦しめた。
心臓を…いや、“脳”を鷲掴みにされたような苦しさだった。
そう、あれは“痛み”だった。
吐き気がこみ上げ、病んだ脳を更に内側から攻撃されたような強烈な痛みだった。
“受け止めきれない”と判断した私はそれ以上考えることを止め、その時見た光景を封印した。
『ファイト・クラブ』本編に話を戻そう。
深夜のコンビニで働く青年・レイモンドが仕事を終えてバス停にいるところで、主人公が突然彼の頭に銃を突き付ける有名な場面がある。
ここで“ぼく”(映画版ではタイラー)は、獣医への道を断念し、カレッジへも行かなくなったレイモンドから運転免許証を奪って彼に言う。
きみの様子を確認させてもらうぞ、…三ヶ月後、半年後、一年後。もし学校に戻って獣医への道を歩んでいなかったら、きみは死ぬことになる。(221ページ)
ここで重要なのは、ぼくは「…獣医になっていなければ 死ぬことになる」とは言っていない点だ。
ぼく(=タイラー)が言いたいのは
“望んだ何者(A)かになれないとしても、何者かになる為に行動した時点で、何者かを目指す何者(B)かになっている”
ということではないか。
この台詞、このくだりは非常にタイラーらしい啓蒙である。
この後が描かれていないレイモンドは、命の危機を感じたからという始まりであっても、カレッジに戻り再び獣医の勉強を始めることだろう。
歩み始めた彼は、昨日までの自分とは違う何者かになっている。
故に、
…明日は、きみのこれまでの人生でもっとも美しい一日になる(222ページ)
のである。
本書には何度か父親に関する記述があり、タイラーもファイト・クラブで闘う時は(心の中では)父親と闘っていると答えるなど、要所要所でキリスト教を連想させる。キリスト教圏において、父親=神だと想像するのは容易だ。
そこから更に連想されるものといえば父殺しだ。
では、『ファイト・クラブ』は父親を超えようとする男たちの物語か?
逆説的だが、この誤解はタイトルから生まれている。著者の「何クラブでもよかった」という発言には思わず笑ったが、確かにあるルールのもとで固まっていく組織であればファイトでなくても物語は成立する。ファイト・クラブにしたが故にそこに“男らしさ”を読み取る読者が多発するが、この物語のテーマに性は関係していないのだ。
もし、主人公が女性だったら?
ナンセンスな想像だがそれでも作品の持つ痛みと衝撃は変わらなかっただろう。映画化されたら、それはそれで支持されるカルト作品となったかもしれない。
つまりこの物語において重要なのは過剰な男らしさではなく、その拳が自分自身に向けられていることなのだ。
どちらかと言うと『ファイト・クラブ』には仏教的な何かを感じる。
以前目にしたとある日本の僧侶の言葉を思い出さずにはおれない。
「絶望の淵に立った時、もう一人の自分がゆっくりと目を覚ます。もう一人の自分は、自分よりはるかに強い」
仏教において、自分を救ってくれるのは仏陀ではなく、ましてや神や仏でもなく、自分自身なのだ。
ところで、世の中には不眠症をあまりに軽く捉えている人々がかなり居る。自分から話題にしないようにはしているが、何かの折に私が不眠症であることを告げると、約七割の人が「自分も不眠症だ」と答えてくる。
話を聞くと(そういう人は大抵自分から、いかに重度の不眠かを語ってくる)、「布団に入ってから何時間も眠れない時がよくある」「たまに朝まで眠れない」程度なのだ。
更には「運動すると良い」などと言葉を返す気力もないアドバイスをされる。
真の不眠症とは、“眠れない”病気である。
日中どれだけ体を動かそうが、温めた牛乳を飲もうが、アロマ風呂に入ろうが、眠れないのである。何日も、何日も、何日も…最後は…あれはおそらく気絶である。
主人公のぼくは真の痛みを知る為に医者から互助会を見てくるように勧められるが、真の不眠症を知りたければ『ファイト・クラブ』を読むといい。
著者チャック・パラニュークは自身が実際に見聞きしたことや体験者の話を盛り込んだと言っているが、体験者となってから読み直すと、不眠症に関する描写(一人称小説なので表現というべきか)はどれも秀逸だった。
どんな出来事もはるかかなたで起きる。コピーのコピーのコピー。不眠症的非現実感。何一つ手が届かず、何一つこちらに手が届かない。(22ページ)
一晩中、思考がオンエア状態だ。
ぼくは眠っているのか?わずかでも眠ったのか?(232ページ)
あなたは会社に来ています。
あなたはここ以外ならどこだっていいどこかに来ています。(274ページ)
“意識”という最後のスイッチが切れない。
脳の疲労が日々蓄積されてゆき、取り巻く世界は重くぼやけてくる。
睡眠というごく自然な生理現象を行えない自分は不自然な生き物であるという自己嫌悪に襲われる。
これが不眠症だ。
慢性的な不眠症で夢遊病を引き起こし、もう一人の自分であるタイラーは攻撃的であるが自身の欲望を満たそうとする理想の自分であることに気づく主人公。
では、マーラ・シンガーの存在は?
自堕落で自殺願望があり、互助会に救いを求めるマーラは主人公にそっくりなのである。厳密に言えば、主人公が嫌悪している自身の一部の分身のような人物なのだ。つまり、ぼくのそれまでの人生は完璧などではなかった。
前半では明らかにマーラを憎み、自分とタイラーの関係を邪魔する存在とみなしていた主人公が、後半になって彼女を愛するようになるのと同時にタイラーの恐るべき計画に気づいて彼を殺そうとするのは、自身のすべてを受け入れることに他ならない。
二重人格(解離性同一性障害)のもう一人の自分は自己を守る為に現れるが、夢遊病の 場合は、攻撃してくるのである。
ここが、決定的な相違点だ。
この作品におけるテーマが幼稚であるとかファシスト的であるとか、そういった意見は問題ではない。
そもそも、テーマをはき違えて捉えている人がおそらく大勢いる。
『ファイト・クラブ』は、夢遊病状態にある自己にキャラクターを付け、覚醒状態にある自己との関係に踏み込んだ物語として記憶されるべきである。
タイラーは、ただやりたいことを片っ端からやれと言っているわけでもないし、社会を混乱させろと言っているわけでもないし、気に入らない上司を殺せと言っているわけでもない。
彼の存在が伝えようとしていることはたったひとつなのだ。
自分自身であれ。
それがどんなに困難で、時に恐怖や嫌悪を伴おうとも。
個人の自由を謳う資本主義社会でこそ、ただの自分であることから無意識に時に強制的にズレが生じてくるのだ。
好みかどうかわからない流行のものを買い集めること、経済力が力の大きさとなること、勝敗に重きを置くこと、落伍者が社会から疎外されること。
自分自身であり続けるためにやらなくてはならないのだ。
何を?
タイラーは答えた。「おれを力いっぱい殴ってくれ」(62ページ)
もし、夢遊病に悩む人がこの文章を読んでいたら
辛く、奇妙な恐ろしさと不安にさいなまれているだろうと思う。
でも勇気を出して、もう一人の自分がやったことを考え、受け入れることが出来るように。
タイラーはあなたに何か伝えようとしているはずだ。
完璧な一分間にはそれだけの価値がある。(41ページ)
私は今、絵を描いている。
最初にすることは、愛用のステッドラーの青い鉛筆を削ることだ。
あの時タイラーが並べた鉛筆は、「お前が一番やりたいことから逃げようとするな」というメッセージだった。
病気とはいえ、だからこそあんなに痛く、苦しかったのだ。
タイラーは、現れたら容赦しない。一番痛いところを殴ってくるから。
私はまた いや、“私たち“は、ひとつになった。
さあ、行けよ、きみの短い人生を生きろ。だが、いいか、ぼくが監視していることを忘れるんじゃないぞ…(222ページ)