かねて知を恐れたまえ

映画や本、ゲームについて。絵も描いています。

「杉本一文『装』画集」がもたらした原体験の記憶と友情のお話。

友人と再会した。
小学校の同級生という私としては異例の長きに渡る友だが、連絡を取り合わぬまま十数年の月日が経った。
いわば、<金田一友達>だった。
あの、妖気と怪奇と猟奇混ざり合う横溝世界が大好きで、何時間でも話し合い時に真似事をして遊ぶ――小学生だった。
ふとした事がきっかけで再会を果たし、杯を交わしたあと、おもむろに「渡したいものがある」と言って友人は古ぼけた文庫本を差し出した。
悪魔が来りて笛を吹く』。
…友人が今や私など足元にも及ばぬ熱烈な金田一ファンとして活動している事は知っていたが、なぜ、今この本を…?と思いながら裏表紙を見ると、そこに。
杉本一文画伯のサインが。
私の名前入りで。
………!?!?!!!!
「お会いする機会があって、サインを頂く時に一緒に書いてもらった」

十数年の年月などあっという間だ。
一旦連絡が途切れてしまうとたまに思い出してもなかなかきっかけが掴めず、このままになってしまうのか…いつか連絡しないと…と気にかけながらも結局ズルズルと不通になる。

そんな、長年会っておらず、いつ再会するかもわからぬ者の為に、超大御所イラストレーターを前にしてサインをお願い出来るか?
しかも、それだけではなかった。
昨年出版された杉本画伯の画集まで出てきた。もちろんサイン入りで。…いかん、書いてるだけで涙が出そうだ。
いや、その晩帰宅して、一人『装』画集と文庫本を膝に置いてその表紙にそっと触れながら、何十年かぶりの「嬉し涙」を流した。
大人になって嬉しくて泣いた事などあっただろうか…しかも、人生最大級の大波(第一回ブログを軽く参照)をようやく乗り越えられそうだというこのタイミングで。

万感の思いを込めて、画集の頁をめくった。


子供の頃、毎日のように読む絵本や漫画、飽きる事なく見続ける絵がなかっただろうか。
細部まで吸い取るように眺め尽くし、中に入ってしまう様な体験はあの頃しか出来なかった。
私にとってそれは、母親の横溝正史コレクションの表紙絵と、父親所蔵のエッシャーの画集であった。
まだ幼すぎて文章は読めず(そもそもエッシャーは洋書だった)、ひたすら絵だけを眺めていた。
末っ子の私は六畳間に両親と川の字で寝ており、夜部屋の電気を消すと、就寝前の時間に両親はそれぞれのベッドサイドランプ(そんな洒落たものでもないしベッドでもない)を点けて本を読んでいた。
当時から寝つきの悪かった私は、しばらくして片方のランプが消え、やがてもう片方も消えて部屋が真っ暗になると、「ああ、寝なければ」というプレッシャーと同時にたった一人の時間が始まったという不思議な悦びも感じていた。暗闇の中での空想世界はとどまることを知らなかった。
日中布団を上げると母親のランプのすぐ横には、必ず黒い枠に囲まれた不穏な絵の文庫本が置かれていたのである。
その表紙こそ、杉本一文画伯の筆によるものであった。

杉本一文エッシャー
この二人こそ、幼い私の細胞の隅々にまで沁み込んだ原点なのである。

エッシャーの話はまた別の機会に譲るとして「杉本一文『装』画集」に話を戻そう。
現在、母親のコレクションは兄がそっくり所有しており、それこそ何十年と目にしていなかった。
が、次々と現れる絵に、静かなるマグマの如し湧き上がる昂奮とざわめき。
ああ、『犬神家の一族』の女性、あの歪んだ唇と異様な髪型(当時の私には充分恐ろしいヘアスタイルだった)にどれだけ見入っていただろう。『貸しボート13号』の暗い波と想像を膨らませるだけ膨らませてくれるタイトル、『八つ墓村』の婆さんの皺。
子供の目線は小さく、それゆえ信じられないほどの細部にまで入り込む。今では決して持てない目線が記憶として蘇る快感。
今こそ、あの頃の自分を褒めてあげたい。ただ無心に見入っていただけだけど、そのおかげでこんな甘美な追体験ができたのだ。
当時、1,2を争うほど“怖い”と思った『本陣殺人事件』、今見ると上の猫はとても可愛らしい。おそらくその下の鈴子ちゃんの迫力で絵全体から尋常ならざる狂気を感じたのだろう。まこと子供の感覚は芯を衝いている。
もうひとつ、『幽霊座』の座り込む黒子。これはもう震え上がった記憶がある。とにかく<嫌な>感じしかしない。しかし、なぜだか漠然としたポッカリ感があったので、一応兄にメールして確認してもらったところ、送られてきた画像はひょっとこ面バージョンの方であった。しかし、例の黒枠付きの装丁を見ていると「あ、うちにあったのは確かにこっちだ」とすんなり納得。この青ざめた鼻の低い女性、心かき乱すほど静かな背景の月。たぶん、母親の<未読の横溝探し>に何度も付き合っていたので、古本屋などで見かけ(てしまっ)たのかもしれない。

テレビで映画版など何本か観て、いよいよ読んでみようという気を起こし、タイトルは忘れたが母親に一冊借りた。どれだけ理解できたのかは定かではないが、なんとか読み終え母親に言った一言はなぜかよく覚えている。
我が横溝体験の最初の感想が…
「この人は、『それはさておき』という言葉が好きだね」
……………………

それはさておき、他にも、まさに擦り切れるほど読んだ楳図かずおの『恐怖』全三巻の表紙など、語り出したらきりがないほどの郷愁の詰まった一冊である。
ここから全てが始まったとも言えるほどの印象をすり込んだ杉本画伯の絵は、私に何を与えたのだろう。デイヴィッド・リンチが幼少時代、美しい庭の情景の中、その裏に広がる虫たちのおぞましい光景を目にした様に、幼い私に横溝本の表紙絵はこの世界の裏側を覗き込む事を教えてくれたように思う。見てはいけないもの、でも確かに存在するものがこの世には在る。破滅するかもしれぬほど恐ろしい禍々しいものと、澄みきった美しいものの共存する世界、それがこの世界の本質だよと。


そんな原点回帰をさせてくれた友人は、私の為にサイン本をもらってくれた理由を一言で答えた。
「だって最初の<金田一友達>だもの」。

埴谷雄高氏曰く、友人とは
「永遠に続く時間の中で、偶然同じ時代に生まれついてしまった哀しみ」。

深淵なる哀しみを共有出来る悦びを感じつつ、狂気の世界を生き抜いてゆきたい。


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