ドラクエ楽しい、止まらない。
ドラクエといえば、9・10をプレイしていないクチである。
理由は…プレイしていない多くの人とたぶん一緒である。
で、二作も飛ばしてしまうと熱が薄れてしまうのも仕方がない。
ところが最近《ドラゴンクエストビルダーズ》のプレイ動画を見て「面白そうだな…」と思い、スイッチ版を購入してみた。
なぜスイッチ版にしたかというと深い理由は無く、持っているスイッチのソフトが少なかったからである(少泣)。
ちなみにそのプレイ動画を見ていて、「面白そう」と思った直後に実況者さんが「なに、この面白いゲーム!」と言っていてクスッとなった。実況を見ていてこういうちょっと楽しいことってあるよね。
そうして始めたビルダーズが予想以上に楽しかった。
頭身の低いキャラは可愛いし、なにより懐かしさもいっぱい。音楽も、ちょっと暗いストーリーも、とぼけた台詞もすべて懐かしい。
新作の発売を心待ちにして、延々プレイし続けて、これまた延々友達と話し込んだ。
ドラクエをやった人は皆さんそんな思い出をお持ちだろうな。
甦る過去作の記憶………
6で、やっとのことで手に入れたラーの鏡を王様の所で掲げた時…鏡から光が溢れ、パアッと画面が白くなり…白くなり…(やけに長い演出だな)…突然暗転、なぜか“ぼうけんのしょ”も真っ白に。
念の為セーブデータを三つほど作っていたが、絶望的なあの音楽とともに「おきのどくですが…おきのどくですが…」と繰り返すスーパーファミコン。
呆然としている間に全てが真っ白になったあの日。
「もう二度とドラクエなんてやらないよ!」と思った。二日ほど。
評価の分かれている7だが、私は(序盤の)相棒・キーファが大のお気に入りだった!
主人公を差し置き、いい装備も全部キーファにあげていた。…と、そこで唐突に起きたあの大事件。
仲間を外れたいとか言い出すキーファとの会話に、必死で「いいえ」と答え続けるも遂に会話がひと回り。あまりの事に動揺しながら、当時アシスタントで通っていた漫画家さんが私より先に進んでいたので、半泣きでメールする。
『キーファが変な女にそそのかされて、ココにとどまるとか言い出しやがったんですが!どうすればいいんですか!』
返ってきたひと言―――『キーファはみんなの心の中に』。
そして、遂に3Dになった8。
ツボ割りもタンス開けもドロボー感が凄くてドキドキ。遠く砂浜にわかめおうじが見えた時の事がなぜか忘れられない光景だ。
しかし、またもや大事件が…
遂に船を手に入れ、「敵は海を渡って西へ行った」とのこと、画面左へ左へと進みたどり着いた大陸。…どう考えても敵が強い。強過ぎる。
ここは絶対今来るところではない。
全滅を繰り返し、「な、何か大切な情報を聞き逃したのか?」とうろたえながら、混乱して説明書などを読み返す。とそこに…『久しぶりにゲームを始めて次にどこに行けばよいのかわからなくなったら、始めてすぐに仲間に話しかけてみよう』。
これだ。
ためらうことなくリセットボタンを押し、始まった瞬間、私は間髪入れず仲間に話しかけた!
答えてくれたのは勝気な女の子、ゼシカ。
『もしかして○○○○(主人公の名)、どこに行ったらいいかわからないの?
たよりないリーダーね』
…………
え!?それだけ?馬鹿にされて終わり?も、目的地教えてくれないの!?
すっかりパニクった私は、当時通っていた(先ほどの方とは別の)漫画家さんの所に行った時にその事件を訴えた。
「そんな台詞、聞いたことないよ!レアじゃない!?レア!!」
…いや、レアな台詞よりも目的地の方が聞きたかったのだが…。
(正解は、真西ではなくちょっと北西にある都市へ向かうことだった。でも、私と同様に素直に左へ直進した人もいるだろうと思う)
さて、いろいろな事があった私のドラクエシリーズ体験だが、今また新たな1ページが!
ビルダーズの面白さに盛り上がり、11を購入!
おお、直球の勇者の物語…
しかし、しょっぱなひとつの問題が…
今回の主人公、ずいぶんイケメンではないか。
いや、それは結構なんだが…ドラクエの主人公はいつも同じ名前にすることにしていて…でも、こんな顔でいつもの名前はどうなのよ…いや、ここで歴代受け継がれてきた名を変えるわけには……でも…
つけちゃった。
歴代一のイケメン・さるきち。
しかしご両親の名前がアーウィンとエレノアって…
なにがあって息子はこんな名になったのだ。
ところでちょっと話はズレるが、ビルダーズというじゅもんで久々にふっかつしたドラクエ熱で《ドラゴンクエスト名言集―しんでしまうとはなにごとだ!》という本を一緒に購入してしまった。
私個人的に、一番の名台詞といえば…「あちち!」である!
主人公が暖炉を調べると「あちち!」と言って飛びのくアレ。
なんの意味も無いのだが、暖炉は必ず調べてあちち!することにしていた。
無口な主人公の貴重な台詞のひとつ。
が、3Dになってなくなってしまった…
わからなくもないけれど…聞きたい、もう一度。
あちち、カムバーック!
現在どうやら仲間は全員揃ったらしいがまだまだ序盤(ああ、嬉しいな)。
いろいろあって勇者さるきちは悪魔の子と呼ばれて追われる身である。上等だね!
ほどよくリアルなグラフィックに喋らない主人公…ほっとするな…。
去年から再びゲームをやり始めているが、どうも最近のゲーム、グラフィックだけでなく会話もリアル志向なのかまぁ皆さんよく喋る。ムービーもくそ長かったり。
《Horizon Zero Dawn》でどうにも苦手だったところがまさにそこで、たかが買い物ひとつでなぜこんなに会話しなきゃならないんだ…皮肉はいいから早く売れよ…と。
ムービーが挟まれるのは楽しいし、ボイスが入るのも構わない(個人的に主人公はいらない)。
でも、なんかこう限度ってものが…
とにもかくにもドラクエは全てぴったりである。
幼少時代の主人公がべらべら喋り出したのには別の意味でびっくりしたが(笑)、ムービーもグラフィックも会話も全てほど良い感じで、中途半端な映画を見させられているのではなく“ゲームをやっている”感があって凄く心地いい。
しかしドラクエのことだから、今作もこの先多くの事件が待ち構えている事だろう…
だが、今や私の人生の指針ともなった、あのもうひとつの名台詞を胸に勇者さるきちと仲間たち(みんな名前がかっこいい)は乗り越えてゆくのだ!
『もしかしてさるきち、どこに行ったらいいかわからないの?』
《レザーフェイス~悪魔のいけにえ》ネタバレ感想――誰の為に作られた映画だろう?
【マスクを被った正体不明の巨体が追いかけてくる】。
三大ホラー映画の共通点である。
通説では《13日の金曜日》《ハロウィン》《エルム街の悪夢》を指して三大ホラーとする事が多いようだが、今回はこのマスクを重要視して、フレディ・クルーガーの代わりにレザーフェイス、《悪魔のいけにえ》を入れる。
フレディはあれ素顔だから。火傷の無い頃も出てくるけど。
そう、素顔。
常にマスクを被っているのがトレードマークなのだから、基本素顔は見えない。
だから怖い。
何者かわからない。表情も見えない。極論を言えば“顔”があるのかどうかも…
この、素顔に纏わる描写が三作品ともに見事であり、この三本がホラー映画に留まらず映画史上の名作と言われる理由のひとつになっているとすら思っている。
今描写と書いたが、実は御三方ともシリーズ内でその素顔を晒しておられる。
ジェイソン・ボーヒーズ。
《13日の金曜日》第一作ではホッケーマスクどころか犯人ですらないわけだが、ラストに生き残った少女の悪夢の中に少年時代の姿で現れる。湖の中からザバアッと、ほんの一瞬。醜く生まれついたらしいがよくわからないほど一瞬だ。見事な演出。
ただ、彼はその後に続く続編で大人になってがっつりマスクを外している。
回を重ねるごとに醜さがアップしてゆくジェイソン氏だが、個人的に第四作目《完結編》の素顔が一番好き。子供の頃初めて観た時は本当に驚いたし。人類が誇るトム・サビーニ氏の仕事には、幼少期のうちに触れるべし。
マイケル・マイヤーズ。
続編が枝分かれしてなんだか大変なことになっている《ハロウィン》シリーズだが、そんなマイケル氏も第一作で外して…いや、外れてしまう場面がある。
これまた、ほんの一瞬。
ただ、その下に垣間見える顔が…“ただの人”なのだ。はっきり言って、思い出せないほどこれといった特徴の無い…と言っては演じた方に失礼だが、これは監督の意図したところだろうと思われる。マイケル・マイヤーズという存在を、都市伝説のようにする為にあえて印象に残らない平凡な顔にした。しかも、マスクが外れて大慌てで被り直す。それまで物音ひとつ立てずに近寄り、声も一切出さずに襲い掛かってきたマイケルがほんの一瞬“ただの人”になる怖さ。
ジョン・カーペンター作品って、必ずどこかに他の人間には真似の出来ない演出がある。私が彼を天才と思う所以である。
さて。
いよいよレザーフェイスの登場。
彼は二人とは異なり第一作では素顔を出していない。せいぜいガタガタの歯並びくらいしか見えない。その後に制作されたリメイク版ではじめて素顔が見える。ちなみに《悪魔のいけにえ》シリーズは《ハロウィン》以上にカオスな状態になっている。
続編、リメイク、さらにその続編…まあいかにこの殺人一家が人気あるのか、というより、話を作りやすいのかもしれない。
《悪魔のいけにえ》オリジナル第一作目は、一家の素性が全く描かれていない。
理由などない、ただ狂っているのだ(ここ、重要)。
なんで?を説明してしまうと怖さ半減、魅力も半減という物語は多々ある。どこまで説明するのか、どこまで見せるのかが監督の力量。
そして《悪魔のいけにえ》も上記二作と同様、“説明の無さ”が素晴らしい。
これはたぶん、最近の映画(…と一括りにしてしまうのもよくないが)で完全に欠落しているところ。ホラー映画に限らず、説明し過ぎで情緒も余韻も無くなってしまっている作品がたくさんある…。
レザーフェイス誕生秘話という、もう完全な説明映画がきた(なんだ、そのジャンル)。
いや、観る前から否定することはしない。
映画だもの。“面白ければいい”というのが基本だから。
だがしかし。
とにもかくにも、鑑賞後の最初の感想は…
「このレザーフェイス、どこに需要があるんだろう」。
物凄く簡単にストーリーを書くと…
殺人大好き一家に生まれたジェデダイア少年(通称ジェド君)は五歳の誕生日プレゼントにチェーンソーをもらうが、ひとりマトモな理性の持ち主らしく、それで人を殺す事は躊躇してしまういい子。兄たちに促されて少女殺人を手伝わされてしまうが、それが原因で精神病院へ。数年後、暴動に紛れて患者仲間と脱走。イカれたカップルと親友の太っちょ・バド君と人質の看護師の五人の逃亡劇が始まるが、相変わらず殺人や暴力はお嫌いらしく、カップルの蛮行にやきもきしている。かつて殺された少女の父親である保安官が執念で追いかけてくるのだが、親友を殺されてようやく理性の吹っ飛んだジェド君がチェーンソーで仕留める。母親から悪魔の囁きをされて、よくしてくれた看護師も仕留める。看護師の顔の皮を剥ぎ取り、めでたくマスク制作に取り掛かるジェド君。レザーフェイス誕生であった――
一言よろしいか。
名前がババだろうがトーマスだろうがジェデダイアだろうが、
レザーフェイスはハンサムであってはならない。
なぜなら、元ハンサムなレザーフェイスなどかっこ悪いから。
ここはぜひともおさえておきたい。
悲惨な目に合う主人公はある程度の見た目でないと、観客が感情移入出来ないから…というのはわかる。オリジナルのファンからすればそんな形での感情移入などどうでもよいのだが、それはさておき、そもそもその主人公の、精神描写がよくわからない。
実はいい子だったというなんともセンスに欠ける設定には目をつぶるとして、なぜ彼がイカれちゃったのか?親友を殺されてプツッときちゃったのはわかる。でもどう考えても引き金は、母親からの「あなたなら出来る」的な誘導ではないか。
そ、それでいいのか?
そんな理由で世紀の殺人鬼が誕生しちゃっていいのか?
しかも母親からの囁きって…それはジェイソン…(ボソボソ)
そしてなぜ、女性でマスクを作った?保安官より肌の張りがよかったから?
説明映画なんだから、そこも説明するべきでは。
レザーフェイスはいろいろあって顔が大変なことになっちゃってるけど、もともとはきっとハンサムだったんだよね…なんて思っている《悪魔のいけにえ》ファンは全世界探してもいないだろうと思うが、この映画で初めてシリーズに触れて「かわいそうなレザーフェイス…」と思った後にオリジナルを観た人は、「なんかただのデブの殺人狂になってる!」とか感じないだろうか…
とするとこの映画、一体誰の為に、何の為に作られたのか…
主人公を演じたサム・ストライクのファンの為であろうか?
いや、どんなきっかけでもよいので一人でも多くの人にオリジナルに触れてもらえる機会があればよい、と私は思っている。今までもそうだったように、これからも、いつだって、人生変える体験をする人がいるだろう。
けっこう長く続いている名作ホラーのリメイク・続編ブームだが、どれを観ても結局は“オリジナルの良さを再確認する映画”となっている。だから控えめに言って、そろそろやめたほうがいいと思う。
いろいろと書いてしまったがいい点が無いわけではない。
母親役のリリ・テイラーをはじめ、みなさんいい演技をしている。
なんといっても本作品中実は一番狂気を孕んだ人物・保安官を演ずるスティーヴン・ドーフ!《セシル・B/ザ・シネマウォーズ》や《ツイてない男》など、いい映画にたくさん出てくれるいい役者!!だいぶ老けてきたが《タイタニック》主演を断った気合のある人、今後も活躍してくれる事を願っている。
あと監督のフランス人二人組は才能ある方々なので、早々にオリジナルの次の作品を撮ったほうがよい。
そしてこの映画、トビ・フーパー監督がプロデュースした最後の作品でもある。どの程度関わっていたかは定かではないが、これによって氏の偉大な業績に傷が付く事はない。あまりにも偉大過ぎる、からね…
最後に、映画館のロビーに貼ってあった映画関連の記事で(なんの記事か忘れてしまった…申し訳ない。たぶん映画秘宝かな?)、田野辺尚人さんの言葉に深く同調したと告白。
「テキサスには、チェーンソーで人を殺す一家がたくさんいる」
…なんと心広く、愛に溢れた言葉!!
テキサスの夏は永遠に血生臭いのだ。
テキサスの人にとってはいい迷惑だろうが、これは“名誉”だから!
愛してるよ、レザーフェイス!!
日本絵本界の最強アイドル「だるまちゃん」
- 作者: 加古里子
- 出版社/メーカー: 福音館書店
- 発売日: 1968/08/01
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次のテーマはだるまちゃんでいこう…と思っていた矢先、作者・かこさとし先生が亡くなられた。
今年一月にだるまちゃん新作三冊同時刊行。
御年92歳にして、まさしく生涯現役であった。最期まで書き続けてくれた事に言葉では表しきれぬ感謝の想いで溢れかえるのは、レイ・ブラッドベリが亡くなった時と同じだ。
かこ先生は自伝『未来のだるまちゃんへ』(文藝春秋/2014)の中で、いかにして子供たちに原発や戦争について伝えればよいのか、もちろんそれを絵本という形で描きたいという事を語ってらしたが、新作の三作においてだるまちゃんと友達になるキャラクターの原型は…
『だるまちゃんとかまどんちゃん』…東北地方の魔除け、火の守り神・カマド神
『だるまちゃんとキジムナちゃん』…沖縄の伝承に登場する精霊
『だるまちゃんとはやたちゃん』…福島では郷土玩具となっている実在の人物
あと余命がどのくらいあるのかはわからないし、果たして間に合うのかどうか
(未来のだるまちゃんへ/248ページ)
見事、成し遂げて旅立った。
今回は、第二作『だるまちゃんとかみなりちゃん』を取り上げたい。
というのもこの物語には、子供心を大いに刺激し今なお想像が尽きないとある場面が存在するのである。
さて、ご存知の方も多かろうが一応あらすじを書くと…
ある雨の日、だるまちゃんが外に出ると空から変なもの(のちに正体は浮き輪と判明する)が落っこちてきて木に引っかかり、ついで大きな雷鳴とともにかみなりの子どもが落ちてくる。二人はその変なものを取ろうといろいろ策を練るがどうにもならず落ち込んでいると、かみなりちゃんの父親・かみなりどんが雲に乗って登場。いとも簡単に浮き輪を取ってだるまちゃんも雲カー(ハンドルが付いている)に乗せてもらい、かみなりの国へと連れて行ってもらう。
見開き2ページに渡って描かれるかみなりまち!二点透視図法による迫力のエレクトロ・シティ!!
浮遊する雲カーやモノレールの行き交うメビウスもびっくりの完全な近未来都市である。
公園やプールで存分に遊んだあと、かみなりちゃんのうちへ行ってご馳走になるのだが、これがどう見ても大晩餐会、かみなりどん相当の資産家である。…が、問題はこの場面である!
ご馳走を食しながら皆で楽しげに観ているテレビ…そこに映っているのは、紛れもなく序盤で浮き輪を取ろうと頑張っている二人の姿ではないか。
……こ、これは…劇中劇?…入れ子構造?……いや、もしかしてここでもう一回ドーン!と雷が落ちて物語は最初に戻り………
などということはもちろん無く、だるまちゃんはお土産をもらって無事家へと帰ってゆく。雲カーでやって来た上空世界から雨傘一本を開いてダイヴするという神技で。
大人になってからの考察としては、超リッチなかみなりどんのことだから可愛い息子の身を案じ、GPS機能内蔵の小型追尾機かなんかが常にかみなりちゃんのそばを飛んで映像を送信しており、地上に落ちた事を知って助けに来たのではないか。その記録映像を再生して皆で笑っていたのである。
ラストでお土産のかみなりクッキーを開けてだるま一家の楽しそうな団欒が描かれているが、私が想像するに、このあとだるまちゃんはだるまどんにおねだりして、餅で角を作ってもらったに違いない(『だるまちゃんとてんぐちゃん』参照)。
私は子供の頃から、怖そうな顔をした丸みのあるキャラクターが好きだった。
神社仏閣にある狛犬や鬼瓦、アラレちゃんのニコチャン大王、ポケモンのゲンガーなどなど…。
この好みは、どう考えてもだるまちゃんから始まっていると思われる。
時に駄々っ子でやりたい放題、だから子供はみんなだるまちゃんが好き。
いたずらっ子で遊びまくる、いわば超リアルな子供、だから大人はだるまちゃんが好き。
そんな無敵のキャラクターを生み出した絵本作家であり、工学博士でもあったかこさとし先生。
大宇宙の塵となったかこ先生に……だるまちゃん、交信!!
・
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そして時が経ち…
・
・
・
うわーーっ!だるまちゃん!!
「杉本一文『装』画集」がもたらした原体験の記憶と友情のお話。
杉本一文『装』画集〜横溝正史ほか、装画作品のすべて (TH ART SERIES)
- 作者: 杉本一文
- 出版社/メーカー: 書苑新社
- 発売日: 2017/11/22
- メディア: 大型本
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友人と再会した。
小学校の同級生という私としては異例の長きに渡る友だが、連絡を取り合わぬまま十数年の月日が経った。
いわば、<金田一友達>だった。
あの、妖気と怪奇と猟奇混ざり合う横溝世界が大好きで、何時間でも話し合い時に真似事をして遊ぶ――小学生だった。
ふとした事がきっかけで再会を果たし、杯を交わしたあと、おもむろに「渡したいものがある」と言って友人は古ぼけた文庫本を差し出した。
『悪魔が来りて笛を吹く』。
…友人が今や私など足元にも及ばぬ熱烈な金田一ファンとして活動している事は知っていたが、なぜ、今この本を…?と思いながら裏表紙を見ると、そこに。
杉本一文画伯のサインが。
私の名前入りで。
………!?!?!!!!
「お会いする機会があって、サインを頂く時に一緒に書いてもらった」
十数年の年月などあっという間だ。
一旦連絡が途切れてしまうとたまに思い出してもなかなかきっかけが掴めず、このままになってしまうのか…いつか連絡しないと…と気にかけながらも結局ズルズルと不通になる。
そんな、長年会っておらず、いつ再会するかもわからぬ者の為に、超大御所イラストレーターを前にしてサインをお願い出来るか?
しかも、それだけではなかった。
昨年出版された杉本画伯の画集まで出てきた。もちろんサイン入りで。…いかん、書いてるだけで涙が出そうだ。
いや、その晩帰宅して、一人『装』画集と文庫本を膝に置いてその表紙にそっと触れながら、何十年かぶりの「嬉し涙」を流した。
大人になって嬉しくて泣いた事などあっただろうか…しかも、人生最大級の大波(第一回ブログを軽く参照)をようやく乗り越えられそうだというこのタイミングで。
万感の思いを込めて、画集の頁をめくった。
子供の頃、毎日のように読む絵本や漫画、飽きる事なく見続ける絵がなかっただろうか。
細部まで吸い取るように眺め尽くし、中に入ってしまう様な体験はあの頃しか出来なかった。
私にとってそれは、母親の横溝正史コレクションの表紙絵と、父親所蔵のエッシャーの画集であった。
まだ幼すぎて文章は読めず(そもそもエッシャーは洋書だった)、ひたすら絵だけを眺めていた。
末っ子の私は六畳間に両親と川の字で寝ており、夜部屋の電気を消すと、就寝前の時間に両親はそれぞれのベッドサイドランプ(そんな洒落たものでもないしベッドでもない)を点けて本を読んでいた。
当時から寝つきの悪かった私は、しばらくして片方のランプが消え、やがてもう片方も消えて部屋が真っ暗になると、「ああ、寝なければ」というプレッシャーと同時にたった一人の時間が始まったという不思議な悦びも感じていた。暗闇の中での空想世界はとどまることを知らなかった。
日中布団を上げると母親のランプのすぐ横には、必ず黒い枠に囲まれた不穏な絵の文庫本が置かれていたのである。
その表紙こそ、杉本一文画伯の筆によるものであった。
杉本一文とエッシャー。
この二人こそ、幼い私の細胞の隅々にまで沁み込んだ原点なのである。
エッシャーの話はまた別の機会に譲るとして「杉本一文『装』画集」に話を戻そう。
現在、母親のコレクションは兄がそっくり所有しており、それこそ何十年と目にしていなかった。
が、次々と現れる絵に、静かなるマグマの如し湧き上がる昂奮とざわめき。
ああ、『犬神家の一族』の女性、あの歪んだ唇と異様な髪型(当時の私には充分恐ろしいヘアスタイルだった)にどれだけ見入っていただろう。『貸しボート13号』の暗い波と想像を膨らませるだけ膨らませてくれるタイトル、『八つ墓村』の婆さんの皺。
子供の目線は小さく、それゆえ信じられないほどの細部にまで入り込む。今では決して持てない目線が記憶として蘇る快感。
今こそ、あの頃の自分を褒めてあげたい。ただ無心に見入っていただけだけど、そのおかげでこんな甘美な追体験ができたのだ。
当時、1,2を争うほど“怖い”と思った『本陣殺人事件』、今見ると上の猫はとても可愛らしい。おそらくその下の鈴子ちゃんの迫力で絵全体から尋常ならざる狂気を感じたのだろう。まこと子供の感覚は芯を衝いている。
もうひとつ、『幽霊座』の座り込む黒子。これはもう震え上がった記憶がある。とにかく<嫌な>感じしかしない。しかし、なぜだか漠然としたポッカリ感があったので、一応兄にメールして確認してもらったところ、送られてきた画像はひょっとこ面バージョンの方であった。しかし、例の黒枠付きの装丁を見ていると「あ、うちにあったのは確かにこっちだ」とすんなり納得。この青ざめた鼻の低い女性、心かき乱すほど静かな背景の月。たぶん、母親の<未読の横溝探し>に何度も付き合っていたので、古本屋などで見かけ(てしまっ)たのかもしれない。
テレビで映画版など何本か観て、いよいよ読んでみようという気を起こし、タイトルは忘れたが母親に一冊借りた。どれだけ理解できたのかは定かではないが、なんとか読み終え母親に言った一言はなぜかよく覚えている。
我が横溝体験の最初の感想が…
「この人は、『それはさておき』という言葉が好きだね」
……………………
それはさておき、他にも、まさに擦り切れるほど読んだ楳図かずおの『恐怖』全三巻の表紙など、語り出したらきりがないほどの郷愁の詰まった一冊である。
ここから全てが始まったとも言えるほどの印象をすり込んだ杉本画伯の絵は、私に何を与えたのだろう。デイヴィッド・リンチが幼少時代、美しい庭の情景の中、その裏に広がる虫たちのおぞましい光景を目にした様に、幼い私に横溝本の表紙絵はこの世界の裏側を覗き込む事を教えてくれたように思う。見てはいけないもの、でも確かに存在するものがこの世には在る。破滅するかもしれぬほど恐ろしい禍々しいものと、澄みきった美しいものの共存する世界、それがこの世界の本質だよと。
そんな原点回帰をさせてくれた友人は、私の為にサイン本をもらってくれた理由を一言で答えた。
「だって最初の<金田一友達>だもの」。
埴谷雄高氏曰く、友人とは
「永遠に続く時間の中で、偶然同じ時代に生まれついてしまった哀しみ」。
深淵なる哀しみを共有出来る悦びを感じつつ、狂気の世界を生き抜いてゆきたい。
悪魔の尿溜へゆくんだ!小栗虫太郎『人外魔境』を読む!
- 作者: 小栗虫太郎
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2018/01/05
- メディア: 文庫
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そんな私も、『ドグラマグラ』でめでたく夢野猟奇ワールドに開眼したのち、いよいよ二冊目に入った。
あれは猛暑、クーラーも無く、扇風機の生温い風にあたりながら読む創元推理文庫のぎゅっと詰まった小さな活字は、行を移ると視界の隅でモゾモゾと蠢き始め、まさに虫の如く汗ばんだ体を這いずり回る…
「ハテ…今、何を読んでいるんだろう?」と何度も躓くのは暑さのせいでボーッとしているからだと言い聞かせるも、気づけば主人公が今どこにいるのかもわからなくなっている(数年後、私はこの現象を勝手に《死靈現象》と名付けた。埴谷雄高さん、ありがとう)。
中井英夫の『虚無への供物』合わせ、三大奇書の中ではぶっちぎりの悪文だ。
悪文…難解さについていけない事を作者の文章力のせいにしているだけという場合も少なからずあるが、まあとにかく『黒死館殺人事件』の冒頭数行を読んでみるだけでよい。
小栗を読むことは“苦行”なのである。
夢野久作『ドグラマグラ』角川文庫版だと32ページ続く《キチガイ地獄外道祭文》通称チャカポコも、挫折者多しの関門と有名だが、あの苦しい詩の繰り返しもおそらく読者を堂々巡りの地獄旅へと誘う仕掛けのひとつとなっているのだろう。
で、小栗虫太郎。
なにゆえあそこまで読み辛い文章を書き、蘊蓄に力を籠め(過ぎ)、物語の進行上重要そうな説明をほんの一行で済まし、そして何より「いかに改行しないかがポイントだよ!」とでも言うようなみっちり感を押し出すのか。
初めて触れた時は「当時の読者はこういう文章も楽に読める人達だったんだ」と勝手に思い込んでいたものだが、「いや、これはリアルタイム読者だって苦戦したに違いない!」と、ある程度読書量の増えた今では思う。
…でもね。
そう。酔うんだよ。
酔ってくるんだ、小栗の文章は。
あるラインを超えると気持ちよくなってくる(ような気がする)タイプ。体内に毒の様に回り始めたら…ほら、活字中毒の虫が蠢きだすよ…
さて。
長年なぜか未読のままだった『人外魔境』である。
いやどう考えてもほぼ直球で私好みの臭いがプンプンなわけだが、なぜか読む機会が無く…この度、河出文庫ノスタルジックシリーズにて刊行されたのをようやく手にした次第。
さあ、毒を注入する準備は出来たか?
いざ、頁をめくらん。
………大魔境《悪魔の尿溜》!アトランチスの有翼人!大迷路の水棲人!白痴女を連れてチベットのユートピアへ!!
猛毒である。
もう死を覚悟したくなるほど魅惑的な小栗ワードの連打である。
そして、一連の探偵小説に比べて読みやすいではないか(あくまで当社比)。
このシリーズ、第三話目から秘境探検家かつ国際スパイ(!)の折竹孫七が主人公として登場するのだが、どうも雑誌『新青年』で連載化されたのがここからのようだ。
主人公の異なる第一話・第二話はページ数も多く、個人的には全話このボリュームが欲しかったところ。
折竹というキャラクターは魅力的なので(なにせ国際スパイ!だし)一話読み切りとはいえ残念だ。
しかし、たかだか30~40ページでこのスケールの大きさ、そこに国際情勢からロマンまで詰め込む手腕はさすが。
だが相変わらず大事そうな展開部分を一行で済ますという技が大量投下されているので、丁寧に読んだほうがいいと思う。
いや、自分の場合、先を読みたくて下手な速読を発動してしまう時が度々あるので…
ニューヨークのサーカス小屋で重量上げの芸をする日本人女性おのぶサン、陽気で図々しくて憎めないロマンチストのカムポス…愛すべきキャラクターも多々登場し、あっという間に読み終える。
読み終えてしまった…
このシリーズ執筆時、小栗は海外渡航経験が一度も無かったとのこと。凄まじい知識量である。
夢野もほとんど百科事典だけをもとに執筆していた事を思うと、現代、欠けてしまった何かを感じざるを得ない…
彼らが夥しい書物に囲まれ思索に耽り、力の限り創造してゆく姿を想像していると、情熱の在り方を考えてしまう。
ところで、表紙の話をしたい。
ラインナップを見ただけでときめく良質なシリーズを刊行してくださり、河出書房新社さん誠に良い仕事をしていると思うが、この表紙はどうだろう…
亜熱帯だけどさ。秘境感あるといえばあるんだけど。
ちょっとその…さわやか過ぎないか?
小説の表紙って難しい。それはわかる。
「お?」と目を引かせつつ、作品世界の雰囲気をうまいこと伝えつつ、かといってネタバレは出来ないし…
大変な仕事だよね…
というわけで、ネタバレ全開で勝手に表紙を描いてみた!
…ハア、ゼェ。ちょっと盛り過ぎたか?
いや、まだまだこんなものではないのだ。
めくるめく
《今日のBloodborne》
…服、着ろよ。
夜が明けた!まずはBloodborneについて。
Chapter 1
いろいろな意味でブログを始めるきっかけとなったゲーム、Bloodborneから話を始めようと思う。前置きがあるので、早くBBの話を…と思う方はチャプター2,3まで読み飛ばしても構わない。
さてここ数年間、我が人生最大最悪の局面に翻弄されていた私は、結果、空っぽになってしまった(あまりヘヴィな話題は避けたいのでこの辺りはサラッと…要は病気だ)。
もともと漫画の修行をしていてそれを生業にできれば…という思いがあったので、まさに四六時中ペンを持ってない時でも、歩いていてもストーリを考える、アイデアをこね回すという日々。
それが。
気づけば空っぽになってしまった。
何も、何も出てこない。それどころではなくある日突然、遠近法というものがわからなくなった。つけペンで線が引けなくなった。習得した技術が次々と消えていった。
怖かった。自分の身に何が起きたのかわからなかったが、とにかくそれが一番怖かった。恐ろしさのあまり、私は絵を描かなくなった。というより、描けなくなったのだが。
これまでにも、絵を描くことをやめたら自分はどうなるだろうなぁ…と軽く想像してみることはあった。きっと、なんにもなくなってしまうだろうなぁ、と。
なんにもなくなるんだよ、コジローさん!その時が来てしまったのだよ!!
自分の価値観が喪失。これは、恐怖以外の何物でもなかった。
もう一度サラッといっておくが、これはスランプとかそんな類の状態ではない、病気だったのだ。
治るのか?いつまで続く?しばらく休めば大丈夫だって?その”しばらく”が3年ほど続いてるんだが。
『このまま』…………(恐怖度、一気にカンスト)。
そんなこんなで2017年3月。
文字通り生ける屍と化していた私は、10年ぶりにTVゲーム機を購入する。
そう、ゼルダの伝説が出たから。時のオカリナは永久に私のナンバー1。
最後に買ったゲーム機といえばWiiとPS2。Switchを手にしてコントローラーのキーの多さに指がついていけず、「ゲーマーとしても復帰出来ないのでは…」などと思いつつ3週間ほどでなんとか盾パリィもできるくらいに(20回に1回くらい)。
仕事帰りのバスの中で「今日はクジラの化石を探しに行こう…」と思った瞬間、数年ぶりに幸せな気持ちを感じた。
新作ゼルダはとても面白くて、ストーリーやゼルダ姫のキャラクター(これは完全に好みの問題)など惜しい点があるものの、数か月間、全プライベートを捧げてプレイ。
故岩田社長が亡くなった時は自分自身がひどい状態だったのでどんな感情を持ったかもうろ覚えだが、今回プレイしながらウルッとする。
凄いな、頑張ったんだな、任天堂…。
少しだけ、心が動く。
ゲームをもっとやりたいなと思っていろいろと見ているうちに、Bloodborneという存在を知る。なにせ10年ほどゲームから離れていたのでソウルシリーズすら名前を聞いたことがある程度。しかしトレイラーを見る限り、なんだか自分好みの世界観である。大好きなアクションRPGだし(完全に下手の横好き)。
がしかし…《世界最高難易度》。
どうする、自分。
2週間後、我が家にPS4とBloodborneが届いた。
Chapter 2
私はあらゆるジャンルの創作物において、制作者の勇気を感じるものに特に感銘を受ける。
《世に出す勇気》だ。
1969年に『TOMMY』を出した時のピート・タウンゼントが美しく見えるのは、彼の勇気を感じるからだ。
革新的なものを創るのには、勇気と情熱が絶対的に必要である。ここで誤解なきよう説明しておくと、私は〈革新的なもの〉に魅かれるのではない。「革新的である」とか「世界を変えた」とかは世に出したあとの反応であって、クリエイターとして魅かれるのは圧倒的にその前の時間だ。
おそらくこのゲーム一本の制作には大変なお金が動いているだろうし、商業的な部分を無視しては進められない。それらをクリアしながら妥協せずに創りたいものを創り上げること。それが最高の《プロの仕事》。
多くのプレイヤーが駆け抜けていくであろう背景のオブジェクトに拘ること…漫画でいえば、読者は0コンマ何秒しか見ないであろう背景の細部に気を配ること。
いつまで続くのか、いつか終わるのかどうかもわからない不毛な日々に光を射したのは一本のゲームだった。
全く予想だにしなかった。
今までの人生で何度も何度も、映画や書物や音楽に助けられてきた。
だが、最大の救済は今回のゲームだった。
抜きん出た芸術性に、崇高な物語に、貫かれた美学に、多幸感をもたらすゲーム性に、そして制作者たちの熱意と労力と勇気に、最大限の敬意を表す。
長い長い夜が明けた。
Chapter 3
記念すべき第一回ブログの最終章は楽しくいこう!
というわけで我が主人公を紹介させていただく。
キアヌきた!自分的にはスキャナーダークリーの頃のもっさりイメージで作ったつもりが、けっこうシャープになってしまった。元来鎧とか剣とかにさほど興味がないので、Bloodborneのお洒落重視防具(というわけではない)と奇抜な変型武器は非常に楽しい。
そしてめでたくクリア、二周目に入る。
一周目でレベルを上げまくったので、二周目は上裸で!!
お洒落どこいった…いや、かっこいい、かっこいいだろ、これ!?
このゲーム、ヴィクトリア朝イギリスが舞台で、まぁいろいろあって呪われた町ヤーナムにやってきた主人公が、狩人となって獣化した方々を狩ってゆくという話なのだが…この格好、もう主人公がケモノ。ちなみに肩に担いだイカした武器は獣肉断ちという。
アクションホラーとのことで、ホラー感が満載。というかかなり怖い。新しいエリアで目前に広がる風景を見るたび、行きたくなくてドキドキする。
クトゥルフ神話がベースだが、後半になるにつれ盛り上がるSF感がたまらない。多くのSF小説や映画へのオマージュが見受けられ心躍る。
ミコラーシュというボス戦で追いかけっこ演出になるのだが、おしゃべりなボスが逃げながら狼の遠吠えを上げた時などもう、硬派なこのゲームに可愛さすら感じ、思わず私も喜びの遠吠えを上げた。
ところで一周目、私は銃パリィのタイミングがさっぱり掴めず早々と諦め、ほぼ銃の存在すら忘れ、ナチュラル銃パリィ縛りプレイをしていた。そのせいでただでさえも高いゲームの難易度がはね上がり、汗ふきタオルも何度洗ったことか。
突然だがコジロー的ゲームプレイ時における必需品
●ハンドタオル…手汗拭き用・ついでにコントローラーも拭いて
●箸…お菓子用
●チューハイ…ボス撃破時祝杯用
Bloodborneのボスは皆哀しい。哀しくてグロテスク、その中に知的さも感じる美しい上位者たちのデザイン。(※上位者…神のような存在。上位者たちに近づこうとして人間たちがあれやこれやする)
DIEしてもDIEしても楽しくて、ちょっと余裕も出てきた二周目では素晴らしいステージを隅から隅まで歩き回って風景や小物を眺め…
絵を描きたいな、と思った。
道具も無かった。ペイントソフトの使い方も忘れた。
それでも、まずは鉛筆を削ってみた。私は愛用するステッドラーのBをカッターで削る。絵を描く時、最初にする作業だ。木の匂いがした。懐かしい匂い。
描いていくうちに思い出してきた。次々に。まさに覚束ない手つきでペンを動かした。まだいろいろ忘れている。培った技術がうすぼんやりとしたモヤに包まれて自分の周りを漂っていて、ひとつずつ開いている感じだ。
それでもなんとなく、思うのだ。
もう、絵を描くことはやめないだろうと。
では最後に、3年ぶりに描いた絵を。
ありがとう、FROMSOFTWARE、JAPANStudio。